「イヤなこと」が起きるのは真剣に取り組んでいる証拠かも知れない

人生、生きていればいやなことも当然に経験しなくてはいけません。職場でいやなことを言われたり、やりたくないことをやらされたり、或いは他人のミスがゆるせないと感じたり、あの人の責任なのに私がどうしていやな思いをしなくてはいけないのかと憤慨させられることも、よくあることと言えば、よくあることと言ってもいいかもしれません。それくらい、いやなことは日々経験せざるを得ないものです。

私もよく、いやなことから逃げ出したい。もういやになった、全部投げ出したい。やっていられないと思うことがあります。しょっちゅうあると言っていいと思います。身分の高い人になったり、お金持ちになったりしたらそのようないやなことから解放されるのではないか、もしそうだとすれば、偉い人になりたい、お金持ちになりたいとも思います。

私の場合、わざわざ独自ドメインを取得してこのようなブログをやっているのも、他人にとやかく言われずに自由に好きにやれる場所がほしいと思ってやっているわけですから、「いやなこと」に対しては敏感というか、脆弱というか耐性が低いところがありますから、いやなことから解放されたいという願望は強いほうなのではないかと思います。

しかし、最近ふと思ったのですが、どんなことでも真剣に取り組めば必ずいやなことに出会う。もしいやなことに全然出会わないとすれば、それは真剣に取り組んでいないということなのではないか、そしてものごとに真剣に取り組むということは間違いなく人生を生きる悦びの一つだと言っていいと思いますから、いやなことに出会うということは真剣に取り組んでいる証拠、人生の大切な何かを経験する不可欠なプロセスなのかも知れないということに気づくことができたように思います。

たとえば、私は今の仕事を気に入っていますから、取り組みも真剣です。学生に対しても真剣勝負です。講義内容を充実させるために疲労困憊することは、ままあることです。ですから学生があんまり真剣に向き合ってくれないとがっかりします。単位がほしいだけ、一応参加しているという学生がいると、残念な気持ちになります。しかしそれは私が真剣に仕事をしているからがっかりするのであって、もし私がどうでもいいと思って仕事をしていれば、がっかりすることはありません。学科が方針を変更したり、教務から些細な事で注文をつけられたりすると、いらっとすることもありますが、やはり私が真剣に取り組んでいるから、学科の方針について真剣に考え、教務からの注文に真剣に対応しようと思うからこそ「あー、こんなことを言われた、いやだなあ」と思うのです。もしどうでもいいと思っているのであれば、とうに投げ出して違うことをしていることでしょう。真剣に何かに取り組めることは幸せなことです。ですから、あーいやだなあと思った時は実は真剣に何かに取り組むという幸福な時間を過ごしている証拠ではないのかと思えるのです。

たとえば、お小言を言う人がいます。しかし、もし相手が私のことをどうでもいいと思っているとすれば、お小言は言ってきません。適当で曖昧な笑顔を見せて私の前から立ち去っていくでしょう。そして私と関係性を保とうとはせず、永遠の他人になることでしょう。困ったことが起きれば早々に見捨てることでしょう。ですから、文句を言われることは場合によっては言われている人の重要性を示すものだとも言えますし、もし自分が重要な立場にいるのだとすれば、それは自分がそのことに真剣に取り組んできたからです。

思った通りに事が運ばないことはよくあることです。私が真剣に取り組んでいれば、それを克服するために力を尽くさなくてはいけませんから、思い通りに事が運ばないことは「いやなこと」です。もし私が真剣に取り組んでいないのであれば、いやなことが起きた瞬間に、「やーめた」と思って手を引き、そしてそこから何かが生まれることは永遠になくなります。真剣に取り組めば取り組むほど、いやなことは目の前に現れてきます。細部にこだわって何かを追及しようとすればするほど、いやなことは増えていきます。しかしそれらが、人生の不可欠な悦びの一つである、ものごとに真剣に取り組むこととセットであるとすれば、むしろ喜んで受け入れるべきことなのかも知れません。そのように考えることができれば、人生がいくばくか生きやすくなるかも知れません。

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