台湾近現代史38‐早川雪洲の訪台、黄禍論、西洋映画の吹き替え

昭和11年6月1日付の『台湾公論』では、西洋映画にアフターレコーディングで日本語の音声を入れることの是非を問う記事が書かれています。記事のタイトルも『日本語版の出来栄え どうかと思はれる節もある』としており、現代でも外国映画の吹き替えの是非は意見の分かれるところですが、この記事の著者は「しっくり来ない」とも述べており、まあ、私も字幕派ですから、著者の気持ちはよく分かります。

さて、この記事でちょっとおもしろいのは早川雪洲の訪台について述べていることです。早川雪洲は知っている人も多いと思いますが、ハリウッド映画で成功した最初の日本人俳優で、最も有名な作品としては『戦場にかける橋』だと思いますが、一方で故国日本ではさほど高く評価されたとも言えない人物のようにも思えます。大変に苦労した人ですし、欧米では非常に高く評価された人ですから、あまり日本で語られないということを気にすることもないかも知れません。この早川雪洲が訪台したのが昭和11年ということは1936年ということになるわけですが、ウィキで読んでみたところ、早川雪州は1930年から5年ほど帰国しており、日本での活躍の可能性を模索していたようです。彼はその後、フランスに渡りそっちで発展することになりますが、昭和11年に早川雪洲が訪台したのは、以上述べたような故国での成功の可能性を探っていた時期にあたることになります。

早川雪洲がアメリカで名を挙げたのは『チート』というサイレント映画で、私も見てないのですが、彼はトリという残酷で卑怯な東洋人の役をしていたようです。この作品に出演したことは、日本人の間でもひっかかってしまうことがあったらしく、彼に眉を顰める人も全くいなかったわけでもないようです。時代は黄禍論が盛り上がりを見せようとしていた時期でもありますから、早川雪洲は黄禍論という人種差別に協力した人物のように受け取られてしまったのかも知れません。これは難しいところで、黄禍論や西洋人の日本人に対するオリエンタリズムを利用して名を挙げたということにより、彼自身にも悩ましいことだったかも知れません。オリエンタリズムとは強者が弱者に対して投影することであるとすれば、『サヨンの鐘』や『南進台湾』も日本の投影であり、オリエンタリズムの連鎖みたいなことになっていたと言ってもいいかも知れません。

今回紹介する記事では、早川雪洲について「日本精神は持ち合わせてゐると見え」るから、台湾でも「或る程度の印象を残すことだろう」としています。なんとなく突き放した、一応、名前に触れておいてやったという感じに読み取れてしまいます。記事では続いて「西洋化された早川雪洲でも大和魂が抜けきっていない」のだから、西洋映画を吹き替えにしても「しっくりこない」ので如何なものかと締めくくっています。この記事からは、とても歓迎しているというようには読み取れないのですが、一方で、吹き替えが行われていたということが分かるので、その分、字幕を読めない、または読むのが面倒だという人にまで映画の客層が広がっていたことを示すものという意味では当時の様相を知る上で有益なようにも思います。

大島渚さんが坂本龍一さんを主演にして早川雪洲を題材にした『ハリウッド・ゼン』という映画を計画したものの、断念したことがありました。映画化されていれば、早川雪洲は現代でも多くの人に語られる人物になっていたかも知れません。

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