台湾近現代史37‐台北の映画館

日本時代の台湾では、台湾映画製作所があったり、台湾映画協会なるものが誕生したりと映画制作に関する活動も試みられたようですが、資料を追いかけている限りで言えば、後世に語り継がれるほどの大きさ成果を挙げたとも言い難いところがあるように思えます。

しかしながら、消費としての映画は多いに盛り上がっていたらしく、人々が映画という新しい娯楽を求めて映画館へ通っていたことがうかがいしれます。昭和11年1月1日付の『台湾公論』で当時の映画館事情を書いていますので、ちょっと紹介したいと思います。

まず、『台湾劇場』。名前からして大きく出たなという感もありますが、栄座劇場というところが台湾劇場という風に劇場名を変えたものの、台湾劇場は別にもあって、同じ名前の映画館が台北に2つになってしまったようです。

次に圀際劇場。この劇場については「華々しくデビュー」「元日開館」と派手な小見出しもついており、新しくオープンしたことが分かります。その設備は冷暖房完備な上に当然トーキー映画に対応しており、マキノ映画もどんどん公開していくということで、同劇場の役員たちの名前までずらっと並べてありますから、劇場側が相当に苦心してなんとか派手に宣伝したかったに違いないという心境が滲み出てくる印象です。

あと、小さく扱われているのが圀際館。外国映画専門ということで、「学生のファン」が通うに相違ないというようなことが書いてあります。ちょっと扱いが可哀そうなのが芳乃館で、こちらは設備もイマイチ、建物もイマイチ、ぱっとしないけれど、スクリーンで映画で観るのは問題ないと一応フォローも入っています。当時は日本映画や洋画がいろいろ入ってきていた一方で、上海経由で中国映画も入ってきていたとのことで、そのあたり、日本人が通っていた映画館と台湾人が通っていた映画館は違うという説もあり、確かに当時の日本語メディアが中国映画をほぼ完全に無視しているあたり、その説は当たっているのではあるまいかとも思えます。

映画とは関係ないものの、ちょっと気になったのは同ページの最下部で、時事川柳のコーナーがあり、大本教検挙、天理教検挙がお題になっています。なるほど、官憲は仕事をしており、言い方はちょっと良くないですが、現代では考えられないような宗教弾圧があったことが分かります。

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