台湾近現代史36‐台湾映画協会

昭和17年12月付の『台湾公論』という雑誌の「映画」という欄で、丸山一郎という人が原稿を書いています。この人物について検索をかけてみましたが、有効な情報を得ることはできませんでした。ただ、中味には興味深いことが書かれてあったので、紹介したいと思います。

同欄では「台湾映画協会」の台湾映画界に対する尽力が大きいと評価しています。篠島さんという主事の人がいて、その人のおかげで『海の豪族』という映画を作ることができるようになったというのです。別の月に発行された「映画」欄では、総督府の情報課が日活協力して『海の豪族』という映画を作るということが書かれていましたから、台湾映画協会と総督府情報課が密接な関係にあったことは間違いがないように思いますし、満州映画協会のような国策機関であったことは想像に難くありません。問題は台湾映画協会なる機関がどのようなものであったのかさっぱり分からないということです。国会図書館のデータベースで台湾映画協会で検索をかけてみても何も出てきません。台湾を舞台にした国策宣伝映画『サヨンの鐘』は松竹と満州映画協会で作っていますから、私はてっきり台湾では映画製作産業が育たなかったものと考えていましたが、以前、台湾映画製作所があったことを知ったものの、やはり映画を2本くらいつくったくらいのことしかわからず、本格的な収益の上がる産業体には発展しなかったものと推測しています。その一方で、台湾映画協会という新しいワードを発見したわけですから、詳しいことを知りたいとも思いますが、これはまたコツコツと資料を読むうちに、想像もしないところからネタが出てくるかも知れません。こればっかりは資料を読んでみないことにはわかりませんので、当面はコツコツやりたいと思います。

台湾映画協会とは別に、『サヨンの鐘』について、ちょっとおもしろいことが書かれていました。松竹サイドとしては、笠智衆さんを使いたかったらしいのですが、笠智衆さんは『ビルマ血戦記』の撮影につかまってしまっていて起用することができない、上原謙さんを起用する案も出ているが、なんか違うということで制作サイドが悩んでいるというのです。実際の『サヨンの鐘』は主演の少女が李香蘭、男性俳優の名前に近衛敏明、大山健二という名前が出てくるものの、笠智衆さんや上原謙さんのような戦後も活躍した超有名俳優の名前は出てきません。松竹サイドは悩みぬいた末に印象に残らない人を使ってどうにか仕上げたというのが真相なのかも知れません。もし、この映画が李香蘭と笠智衆の共演ということになっていたりすれば、戦後もいろいろなところで話題になったことでしょうから、松竹としてもちょっと惜しいところだったのかも知れません。

太平洋戦争の真っ最中ですから、台湾映画協会といい、満州映画協会といい、宣伝に大変に熱心なことがわかります。更に同欄によれば、「台湾興行統制会社」なる穏やかではない名称の会社まで登場しており、果たしてどんな仕事をしていたのかこれも気になるところです。統制会社令というものが国家総動員法に基づいて出されていますから、その関係の会社かも知れません。その場合、情報統制というよりは、統制経済、産業統制の一環という意味合いの方が強いものであったかも知れません。そのあたりもいろいろ資料を読むうちにいずれは見えてくることもあるかも知れません。

追記 今回使用した資料は昭和17年としてありますが、統制会社令が出されたのは昭和18年であるため、実際にこの記事が発表されたのは、昭和18年の12月かも知れません。資料が断片的で完全には確認できないこと、データベース作成サイドの凡ミス可能性があること、私の凡ミスの可能性も否定できないことを書き加えておきたいと思います。

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