台湾近現代史31‐映画と大衆とファシズム

日本統治期の台湾の映画愛好家によって結成されたサークルである台湾シネリーグが発行していた『映画生活』の昭和7年6月17日付の号で、作間恒という人物が『映画と大衆』という題で寄稿しており、ちょっと興味深かったので紹介したいと思います。作間氏曰く「映画芸術は、大衆の映画鑑賞のレベルに比較している」としたうえで、日本映画をかなりぼろっかすに書いています。そのぼろっかすな書きっぷりもなかなか本気を出した感じのぼろっかすなのですが、同時に映画史の勉強にもなる内容になっているので、もう少し深く内容を見てみようと思います。

ざっと要約しますが、まず、映画が日本に輸入されたとき、人はそれを「活動写真」と呼び、芸術鑑賞と呼ぶよりも物珍しさが先に立ち、そのことで人々の心を掴んだ。そしてその時に日本で作成されたものは舞台芸術の延長線上にあるもの(或いは舞台芸術のメタファー)であったため、モンタージュ理論などの映像効果というものを発揮することはなかなかできなかった。しかも、観客は舞台だと同じだということに気づいてきてだんだん飽きてくる。そこで観客の心を引き留める新たな手段としてトーキーが登場した。しかし、外国映画がトーキーの良さを存分に発揮しているのに対して、日本の国産映画は対して効果を上げているとは思えない程度に音楽が入っている程度の幼稚なもので、甚だしい場合はトーキー技術を使って無音映画を作ろうとする場合すらある。最近では『マダムと女房』『若き日の感激』のように、多少ましだなあと思えるものは出てきたが、とても外国から輸入されたものとは比較にも及ばない。いま日本では様々な映画が計画されているが、はっきり言って全然期待していない。ぶっちゃけ監督は「為す処を知らず」、興行的成功にばかり意識が行ってしまい芸術性というものはほとんど忘れられている。こんなことになるのは、観客が映画を新派劇や時代劇のようなものを期待しているからとも言え、要するに民度の問題である。

と以上のようなことが書かれたうえで、原稿の最後の方では「如何に國産愛用、ファッショ化の今日と雖も、悪いものは結局悪いのである」とまで斬って捨てており、最終的には観客の映画鑑賞力が向上しなければ問題解決しないのだという論旨でしめくくっています。さて、「ファッショ化」という言葉が気になります。時代は昭和7年ということですから、1932年。ドイツではファシズムを公言するヒトラーが政権を獲る一歩手前まで来ている時期で、世界的にファシズムが時代の新潮流(かも知れない)と考えていた時期でもあります。ファシズムは自国民を大事にする上に「全体主義」なわけですから、不平等をも解消するとする期待があったわけで、その要因を辿れば世界恐慌にまで行きつきます。なんとなく、本当になんとなくですが、リーマンショック以後に自国民ファーストと呼ばれる各地でのナショナリズムの高揚とちょっと似ているような気がしなくもありません。国内の不平等と外国の脅威がナショナリズムの必要性としてうたわれるという意味で、やっぱりちょっと似てるかなあと思えてしまわなくもありません。もちろん、格差問題などは取り組まれなくてはいけない課題とは思いますが、だからと言ってすぐに今はファシズムが再び台頭しているなどと決めてつけてしまうつもりはありません。あくまでもちょっと似てるかも知れない、そんな気がしなくもないといった程度に感じるだけです。

この時代、既に第一次上海事変が発生しており、5.15事件で犬養毅首相が斃れ、その原因は海軍将校の英米協調軍縮路線に対する反発があり、その前年の1931年には満州事変が勃発し、日本は国際的な孤立を深めようとし、世の中すっかり半英米といった雰囲気が盛り上がりつつ時代です。当然に、日本素晴らしい的な愛国心が盛り上がり、なにしろそれまで負け知らずですから、英米を敵として意識するという雰囲気もまた盛り上がりつつあったと言えると思います。その中で、「お前ら、映画を見る目もまだまだ幼稚じゃねえか。まず己の幼稚さを知れ」とアテネの神殿の神託の「汝自身を知れ」の如き投稿があったというのは、なかなか興味深いことなのではないかと思えてきます。

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