日本統治時代の台湾の映画愛好家のサークルだった台湾シネリーグの機関紙『映画生活』の昭和7年6月17日付の記事に「入会の挨拶」という欄があり、越村という人が原稿を寄せています。同じ日付で新規入会者の名簿もあり、名前も住所も公開するという、現代ではちょっと考えられないようなのどかな欄もありましたが、台湾人と思しき名前の人が2人、あと20人くらい日本人の名前があり、公民化とかそういうのはもうちょっと先になりますが、自発的に日本名を名乗っていた台湾人もいた可能性がありますから、さらに数名、台湾人が参加していたかも知れません。いずれにせよ日本人が中心の会になっていたことは間違いがないと言えますが、台湾人が排除されていたというわけではないように思えます。汪時潮という人の原稿が掲載されたこともあります。紹介制で入れるサークルであったため、人脈の違いみたいなところもあったかも知れません。
で、越村さんの入会の挨拶では、台湾シネリーグが鑑賞会を行った『市街』というアメリカ映画と『若き日の感激』という松竹映画について論じられています。曰く、アメリカと日本の国民性の違いのようなものがよく出ているということらしいです。私はどっちの映画もみたことはないですが、『市街』はスピーディなギャング映画で、『若き日の感激』はわりと淡々とした感じの恋を描いているらしく、アメリカ映画が激情を描いているのに対し、日本映画は思慕を描いている点で国民性に違いがあるというわけです。今でも日本人はアメリカ人と比較して論じることを好むように私は思いますが、この傾向はこの時代から既に存在していたことがわかります。両者の理解し難い壁のようなものがあるとまで論じられていて、やはりこのころから時代の空気としてはアメリカを仮想的として見るというものがあったのだろうという気もしなくもありません。
ちょっと興味深いのはこの方の挨拶の最後の方で
最後にトーキー外国物の日本版に対し依然弁士の洗練された(十分に研究の怠らぬ)●●(印刷された文字がつぶれていて判読不能)が私共にすら、何れ丈け映画を楽しむ上に必要であるかを強調して筆を置きます。
と述べられていることです。この越村さんという人は、よほどトーキーが嫌いなのでしょう。『若き日の感激』も『市街』もトーキー映画であり、明らかに時代はトーキーへと移っているわけですが、弁士の講談風(想像)の口調をよく楽しんだ人であったに違いありません。現代人の感覚からすれば弁士がしゃべる映画とか面倒で見たくないと感じると思いますから、やはりどの時代に青春期を送ったかみたいなことは価値判断に大きな影響を及ぼすという証左の一つなのかも知れません。この越村さんという人はちょっと考え方が堅いのかなあと思わなくもありません。
今でも映画は別に3Dである必要もないし、VRである必要もないと思う人がいる一方で、3DやVRがめちゃおもしろいと思っている人もいますから、トーキーかサイレントかというせめぎあいと同じようなことを我々も経験しているのかも知れません。いずれ、映画はVRが当たり前という日が来るかも知れません。
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