日本統治期の台湾で発行されていた映画愛好家のためのサークルである台湾シネリーグの会報だった『映画生活』をこつこつ読んでいるのですが、この愛好家サークルはちょっと審査が厳しいらしく、会費を納めることはもちろんのこと、入会は紹介制であり、会員は上限が500人と定められており、欠員ができると申し込み順に入会できるという仕組みになっていたようです。
昭和7年6月17付の会報を読んでみたところ、同年5月18日に『市街』というアメリカ映画と『若き日の感激』という松竹映画の鑑賞会を行ったほか、5月26日には日活映画の『国士無双』の鑑賞会を行ったとの報告が述べられています。気になったのはその後の記述で、
1、次回鑑賞会については「再生の港」を借り切ってリーグ員のみの会合とする預定だったが、異論多く「再生の港」は鑑賞映画としないことに決定。2、リーグに対する逆宣伝は黙殺して会員同志の自省を促すことを申合す。
とされています。まず『再生の港』の鑑賞会になぜ異論が噴出したのかが謎なわけですが、この映画は1931年にアメリカのfox社が制作した当時としては最新の映画で、当時の台湾映画愛好家たちは新しい映画が慢性的に不足している状態が続いていたはずですから、実際のところは盛大に鑑賞会をやりたいに違いないはずです。検索してみたところ、この映画は身を持ち崩した男女が周囲の反対で生き別れになり、最後にそれぞれに真面目になって人生をやり直すようになってから再開して結婚するというハッピーエンドもので、果たして何が悪いのか、満州事変はまだ勃発していない時期ですから、日本の全体の空気としてはまだ英米協調路線の方が濃かったはずでアメリカ映画へのアレルギーみたいなものもなかったはずでは…という疑問が湧きます。現代人の感覚であればいったんは身を持ち崩した男女が真面目に再開して結婚するのであれば、むしろ多くの人に勇気や希望を与えそうな気もするのですが、当時の価値観ではたとえ一度でも身を持ち崩すことは許容できない、即ちこの映画ははれんちな内容であるという意見が出たのかも知れません。
次に、2番目のリーグに対する逆宣伝が果たして何を意味するのかも分からないのですが、『再生の港』の鑑賞会取り消しから察するに、もしかすると英米かぶれの堕落趣味のサークルだ、というようなある種の悪意ある誹謗中傷があったのかもしれません。大阪朝日新聞台北支局内に事務局があったことや、紹介がなければ入会できなかったことを考えると、紳士の社交場としての位置づけであったとは思いますが、だからこそかえって堕落趣味と呼ばれないように自省しましょうということなのかも知れません(ほぼ完全に想像で行間を読んだだけですが…)。
英米協調のワシントン軍縮条約、ロンドン軍縮条約に反対する海軍将校が515事件を起こした直後の時期にあたりますから、もしかするとそのあたり、方々、ご用心、ご用心…ということではなかろうか、という気がしなくもありません。
同じページに会の第一期収支決算も掲載されていて、収入が212.50円(会費、会報に載せたと思しき広告収入、寄付の合計)で、支出の方は113.45円(会報製作費など)となっていて、儲かった分は「基金として台湾信用組合に貯金す」となっています。映画会にかかった費用は別の計算になっていたらしく、『モロッコ』鑑賞券の販売総額と諸費用の差し引きが掲載されており、こっちは419.25円のプラスになっており、プラスの分も基金として「預金す」と記されています。これが大きい金額なのか、小さい金額なのか、当時の内地と台湾との物価の違いもあるでしょうから、ちょっと判断できないのですが、諸経費に『キネマ旬報』の購入費が含まれており、キネマ旬報が2円となっています。今、キネマ旬報が税別850円ですから、ざっとどんぶり勘定で1000円とした場合、当時の2円≒1000円ということになり、大正時代は円本というのがあって、これもどんぶり勘定で本一冊1000円くらいと考えた場合、明治維新以降、円はドルに対して少しずつ下落していたことも考慮すれば、昭和7年の段階で1円≒500円と考えるのもそこそこ妥当であると思え、そうすると、会費の収支が113.45円のプラスは現代の価値にして56725円、映画鑑賞会は419.25円のプラスですから、現代の価値にすれば209625円に相当することになります。
愛好家のサークルとしてはまずまずの運営内容と言えるのではないでしょうか。
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