日本統治時代の台湾では映画を楽しむ人口は増え、映画という新しい娯楽の受容が相当に進んでいたことは論を待たない程度に明らかなことと考えられていますが、映画製作という意味で映画産業は育たなかったとするのが通説と言えますし、私もそう考えています。李香蘭が主演した『サヨンの鐘』や宣伝映画『南進台湾』は満州映画協会が制作しており、それだけでも台湾で映画制作が行われ得なかったということの証左とも思えます。
しかしながら、当時の大阪朝日新聞台北支局に事務局を置いていた映画愛好家のためのサークルである台湾シネリーグの発行した雑誌『映画生活』の昭和7年6月17日付のものを読んでみたところ、次のような内容の記事を見つけました。
今回台中に台湾映画製作所が設立されることになり監督として安藤太郎、千葉泰樹、俳優として津村博、秋田伸一等が訪台、最初に義人呉鳳の映画化を行ひ、次いで「栄光に輝く」「台湾行進曲」「鄭成功」などを製作するといふことである。
というのです。ちょっと検索をかけてみたのですが、『義人呉鳳』(1932年)なる作品は確かに実現しており、清朝の時代に華人の役人と台湾原住民との間で通訳の仕事をした呉鳳の美談を映画にしているとのことで、監督は安藤太郎と千葉泰樹が共同で行ったようです。この映画はサイレント・ムービーであったとのことで、やはり資本事情が東京とは異なり、トーキーの時代はすでに来てはいたものの、ちょっと手が出なかったのかもしれません。ネットで検索しただけですが、安藤太郎は「台湾出身」ということらしいので、或いは台湾人で日本語名を使っていた人なのかもしれません。ついでに言うと、台湾映画製作所(台湾プロダクション、台湾プロとも)では千葉泰樹はその後に同映画製作所で『怪紳士』というものを製作しており、同監督はその後は日活に移っており、台湾との縁は特にないようです。「栄光に輝く」「台湾行進曲」「鄭成功」などの制作予定の作品についても検索をかけてみてもよく分かりませんでした。予定していた作品を作らず、予定に入っていなかった『怪紳士』を制作しているというのはどんな事情があったのかと想像するしかないですが、想像しても材料が足りなければどうにもなりません。『怪紳士』がどんな映画だったのかも分からないのですが、1930年に同名のアメリカ映画と思しき作品があったということが検索で引っかかりましたので、それのパクりをしたのかもしれません。
ざっと資料を読んだり検索をかけたりした結果『美人呉鳳』と『怪紳士』の二作品は確かに台湾映画製作所で制作されたに違いないようです。でもそれ以降の話が見つかりませんから、興行的、資本的に失敗して撤退したのかもしれません。資料を読み進むうちに後日談のようなものも見えてくるかもしれません。
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