台湾近現代史24‐昭和初期の映画配給とトーキー

日本統治期に台湾の映画愛好家サークルである台湾シネリーグによって発行された雑誌『映画生活』の昭和7年12月29日付のものに、シネリーグの人たちと松竹の人たちによる映画座談会が掲載されています。『嵐の中の処女』という作品についての意見交換がされており、私、そのようなタイトルの映画を全然知らなかったのですが、検索をかけたところ蒲田の松竹の撮影所で制作された映画ということで、しかもトーキーということもあり、当時はそれなりに注目を集めた作品だったようです。「松竹の撮影所」という響きを耳にすると『キネマの天地』がぱっと頭に浮かびますから、そういう風に思って考えてみると、こういう古い映画について考えてみるのもなかなか悪くありません。

座談会ではこの作品の評価についていろいろと良いところ、悪いところをなかなか忌憚なく述べているのですが、私個人としてはタイトルが悪いのではないかという気がしてならないのですが、時代は大正デモクラシーの後ですから、結婚前の男女が恋愛することが普通の生活スタイルに入り込んでいく時期のことでもあるわけで、そういう風に考えれば、このタイトルも当時としてはかなり思い切った、挑戦的なものだったと言えるのかもしれません。

時代はトーキーに入ってまだ間もないわけですが、下斗米さんというシネリーグ側の人が「トーキーは大嫌いだったのですが、あれを見てトーキーを肯定しましたね」と述べています。活動写真の時代であれば弁士が映像に合わせてあれこれおもしろおかしく話してくれたり、時には泣かせてくれたりするのが醍醐味だったかも知れないのですが、ようやくトーキーの水準が弁士のそれを抜き始めてきたらしいということが分かります。現代人の我々が少しずつ電子書籍に慣れていったり、youtubeやニコニコ動画に慣れていったりするのと同じような感覚だったのかもしれません。

三好さんというこれもシネリーグ側の人ですが「外国物と太刀打ちしても平気と思うね」と述べ、更にこの御仁が「(キートンの作品は)ありゃ問題じゃない」と述べているのも印象的です。日本の映画作品が欧米のそれに近づこうとしている伊吹のようなもの、ある種の切望のようなものが感じ取れます。

松竹側の八木さんという人が「(映画の中の)広告は益々多くなるでせうな」と経営目線、収益目線の考えを述べているのも印象的です。当時としては映画は本当に新しい産業で、広告もまた同様に新しい産業ですから、可能性が広がる分野だと考えられていたことも分かります。

山下さんというシネリーグ側の人が「内地の盆興行のが今頃見られるのだから、早く見られるようになったものですね」と述べ、松竹の河合さんという人が「今迄は台湾に配給した映画は、なかなかもとに戻らないので早くは廻さなかったのですが、松竹ではこれからどんどん良い映画を持ってくるようになりました」と述べています。

フィルムは物理的に高価なものであったため、貴重品として扱われていたことを察することができるわけですが、同時にそれでも台湾に早くく配給するようになったということは、当時の台北が映画市場としても成熟し始めていたことを伺わせます。

映画が好きな人たちが、映画について自由に語るというのは読んでいて悪い気はしませんし、松竹としては日本語の映画を制作するわけですから、日本語圏が広ければ広いほど商機になるということも滲んでいます。日本が戦争に敗けるとはまだ想像もできなかった時代であったわけですが、満州事変後の国際的孤立も併せて考えると、植民地にフロンティアを見出したいという意識が強かったのかも知れません。

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