【自己訓練】正の自己内対話で人生を良くする



人の幸不幸は幼少期でだいたい決まると言う人がいます。ある意味に於いてそれは正しいと言えますが、同時にある意味に於いて、そこは必ず克服されなければならない課題である、人間という尊厳を持った存在である我々はその克服方法を探し求めざるを得ないとも言えると思います。

運よく幸福な幼少期を経験した人は「人生とは幸福で素晴らしく美しいものである」という確信を持つことができるようになりますから、人生で起きる全てのことをその思考パターンによって理解します。そのため、成長した後にどのようなことが起きようとも幸福感を維持することができます。そもそも生きているだけで幸福だという思考が定着しているため、多少のいやなことがあっても私は幸福だという思考パターンが持続しますから、どうということはないのです。人生の記憶は常に選択的なものですから、良いことだけを何度も思い出し、更に私は幸福であるという確信を強め、悪いことがあっても気にならず、場合によっては悪いことも良いことだと自分の頭の中でコードの読み替えをすることができますから、結果として人生には良いことしか起きないことになり、私は幸福だという思考パターンはますます強められ、一生幸福で過ごすことができます。幼少期の環境や経験は自分ではコントロールできませんから、これはもはや運の範疇に入るとも言え、そういう幼少期を過ごすことができた人には素直に「おめでとう。あなたは宝くじで10億円を当てる以上に運がいい」と祝福の言葉を述べるほかはありません。無条件に幸福な人生というプライスレスなものを手に入れることができたと言えるからです。

しかし、幼少期を幸福感だけに満たされて過ごすことができる人は稀なはずです。人生には良いことも悪いこともランダムで発生しますから、幼少期に悪い経験をしたり、嫌な思い出が残るという人の方が多いでしょうし、不運な場合には、幼少期に他人には言えないような経験をしたことで、ひたすら不幸を感じながら人生を送ってしまうケースもあるはずです。私は幸福だという確信を持った人が、成長後にいかなる経験をしても私は幸福だという確信を強めるように、私は不幸だという確信を持ってしまった人は、放置すれば生涯、私は不幸だという確信を強めていくことになってしまいます。

人には尊厳があり、人は自分を他人と同じように尊敬する権利を持っています。自分のその権利を守り、よりよい人生を送るためには、「私は不幸だ」という確信を強化することを可能な限り避け、「私は幸福だ」という確信を強めることができるよう、意識して選択し、行動するべきです。絶望に打ち負かされず、不幸感に支配されず、それを克服し、幸福感を勝ち取らなくてはいけません。たいていの人は「私は幸福だ」と「私は不幸だ」の感覚の自己内対話で揺れ動いているはずですから、私は不幸だと感じてしまった時、絶望に敗けそうになった時、不遇な時期のために手を打ち、私は幸福だと感じるように自己訓練をするのだと言ってもいいかも知れません。

手っ取りば早いのは絶望に打ち負かされそうになった時、好きなものを食べたり、好きなDVDを見たりすることです、非常に苦しい絶望するしかないような悲嘆に暮れるような状態の時は、まずは自己回復の時間をとるしかありませんので、チョコレートを食べるなり、アイスクリームを食べるなり、好きな映画俳優の動画を見るなりして自分を癒すことを考えなくてはいけません。これはてっとり早く、かつ安上がりですが、一時的な効果しかない応急処置であるということは知っておく必要があります。下手をすれば依存症になりますから、あくまでも一時的な自己救済手段です。

人生には時として自分の人生には価値がないと思いたくなるほどの悲嘆に襲われる時がありますが、そうでないときから、日常的に自己内対話が正の方向に向かうよう、特に「私は不幸だ」という感じ方の強い人は心がけなくてはいけません。そのような日常的な「訓練」として効果があるのは、一人の時でいいので「私は幸福だ」と言ってみることです。仮に24時間「私は不幸だ」と思っているとすれば、「私は幸福だ」と言葉に出すことにより、たとえ1秒でも「私は不幸だ」という思考が遮られ、不の自己内対話に多少なりともブレーキをかけることができます。

アドラーは外形的にいかなる不幸があったとしてもそれに立ち向かい幸福を勝ち取るべきだと言っているのは、実は幼少期に「私は不幸だ」という確信を持ってしまった人にとっては不可能と思えるほど酷で絶望的な努力です。しかし、それでも幸福感を勝ち取る努力を続ける以外には自己救済の道はないと彼が考えていたことについて私は完全に同意します。ですので、日ごろの自己救済の訓練を続けるべきです。もちろん「私は幸福だ」と繰り返し言葉にするとき「そんなことを言っている自分は馬鹿なのではないか」という考えが浮かんできます。そこは割り切って、1日1分とか5分とか決めて「私は幸福だ」と唱え、無理のない範囲で続けることがベストです。それを繰り返すことにより、「私は不幸だ」という確信がじょじょに揺らいで行き、その分、私は幸福だと考えることができるようになる可能性があがります。

高級レストランで食事をしたり、一流ホテルに宿泊することも、私は幸福だと感じるためには効果があります。実際に目の前に素晴らしい食事が出されたり、素敵な部屋に通されることで「私は幸福に値するのだ」と自分を説得する材料にできます。もちろん、これも時々、幸福感を強めるための強化合宿のようなものですから、金銭的な限界や物理的な限界を考慮し、依存症にならないように注意することは忘れてはいけません。カウンセリングを受けるのもいいでしょうし、あまりに残酷な挫折感を味わった場合には、金銭的にゆるすのであれば、しばらく
海外を歩くというのも私はアリだと思います。私は不幸だという思考の連鎖を断ち切ることができれば、自己回復力が機能し、やがてまたいろいろなことに挑戦できるようになっていきます。

有酸素運動瞑想も「私は不幸だ」という思考の連続性を断ち切る効果がありますから、日々続けることにより、不幸感の連続性が断ち切られ、その分、幸福感を得る可能性は上がります。健康にもいいので、特に有酸素運動はかなりお薦めと言えます。

もちろん、おそらく一番いいのは、良い意味での諦めを持つことです。充分に諦め、期待しない。そうすれば少々の挫折や嫌なことがあっても打ちのめされるということはありません。幼少期に「私は不幸だ」という確信を持ってしまった人には打ちのめされることが連続で起きてしまいます。悪いことがその人に集中して起きるのではなく、様々な事象から「私は不幸だ」という説得材料を見つけ出し、その信念を強化してしまうことがパターン化してしまっているからです。諦めるという究極の達観に至れば、そのパターンから逃れることができるかも知れません。しかし、これはおそらく最も難しい方法であるであるとも思えますから、敢えてお薦めはしません。

人生「私は幸福だ」と感じて生きるのが一番で、以上までに私が幸福だと感じるために講じ得る幾つかの手段を述べてみましたが、やはり外形的な成功というものは「私は幸福だ」と感じるために強い説得力を持つこともまた確かなように思えます。最初から諦めてしまっては人生を生きる醍醐味のようなものが失われてしまいます。目指している試験に合格したり、理想の恋人と結ばれたり、ほしいと思うだけの金銭的報酬を得たりすることは自分自身を「私は幸福だ」と説得する上での分かりやすい証拠であり、有力な説得力材料になることは事実と思いますから、俗っぽいとは言え、社会的、世間的な成功を目指すことも充分に良いことだと思います。

では、どうすればそのような成功を掴めるのか、また日を改めて確率論という観点から考えてみたいと思います。

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