「代表なくして課税なし」と言う合言葉で知られるアメリカ独立戦争ですが、そこに至る背景には幾つかの前哨戦があります。
ヨーロッパでは神聖ローマ皇帝の継承問題を巡り、ハプスブルク家とプロイセン王国が対立、オーストリア継承戦争が行われ、ハプスブルク家はシレジア地方を失い、神聖ローマ皇帝の権威そのものが帝国内で低下していきます。ハプスブルク家は東にロシアとオスマントルコ、北にプロイセン、西にフランスという脅威に囲まれつつ、帝国そのものが自治性の高い王国の集合体であったために基盤が弱く、外国と戦争する前に国内の獅子身中の虫をなんとかすることに追われる始末となっており、わりと命運が尽きかけた感が滲んできます。
ハプスブルク家の実質的支配者であったマリア・テレジアはこの苦境から脱するためにルイ15世の息子、即ちルイ16世にマリー・アントワネットを嫁がせ、要するに政略結婚でフランスからの脅威から解放され、プロイセンに対する復讐戦を準備し、これが後に7年戦争と呼ばれる世界大戦級の大戦争へと発展します。この七年戦争ではイギリスがプロイセンの側につき、構図としてはフランス・ハプスブルク連合vイギリス・プロイセン連合(かなり単純化しています)ということになるのですが、結果としては諸国の海外植民地での戦争へもつながっていきます。更に、スペイン国王がブルボン王朝の血筋ですので、フランスサイドについたこともあり、かなり複雑な様相を呈します。
アメリカ大陸はヨーロッパ諸国の草刈り場みたいになっており、フランス植民地、イギリス植民地、スペイン植民地がそれぞれに競合していたわけですが、ヨーロッパでの戦争が当然のごとくアメリカ大陸に飛び火し、英仏西が三国志のごとくぶつかり合いました。ヨーロッパの戦局が一進一退であったのに対し、アメリカ大陸での戦争は、ハプスブルク家がそもそも関心を持っていなかったことと、フランスがヨーロッパでの戦いに集中して、アメリカ大陸では現地入植者だけでなんとかしろという方針であったために、結果としては海にまもられ自国が攻め込まれる不安の少ないイギリスが全体的に有利に戦闘を進めます。
結果、1763年のパリ条約でフランスはアメリカ大陸におけるほとんど全ての地域を放棄するということになり、これがフランス革命の遠因になってはいくのですが、ここはアメリカ独立戦争の話をしたいので、アメリカの方に視点を置きますが、イギリス本国が7年戦争にかかった戦費をアメリカの入植者に課税することで埋めようと考え、あらゆるものに課税していきます。アメリカ本国からの反発は強かったようなのですが、植民地からは議会に代表を送ることができません。「代表なくして課税なし」とは、そのような状況に対する不満から生まれた言葉なわけです。イギリス本国としては「お前ら入植者を守るために7年戦争でめちゃめちゃ金を使ったんだから、その分はお前らで償えよな」ということになるのでしょうから、アメリカからの非難を完全に無視してタウンゼント諸法と呼ばれる新しい税制に関する法律を成立させ、これからはアメリカの入植者からがっつり税金をとるぜという姿勢を明確にします。
激昂したアメリカ入植者たちが暴動を起こし、課税対象の一つである英国製のお茶の荷物を破棄するという有名なボストン茶会事件が起きます。ティーパーティ運動という言葉がよくつかわれますが、これはこのボストン茶会事件の精神、アメリカの出発点を忘れるなという意味で使われているわけです。
ジョージワシントンら独立派は民兵を組織し、やがて彼らはアメリカの正規軍へと再編されていきますが、アメリカ軍がアメリカ大陸のイギリス軍との戦闘を開始し、イギリス軍はアメリカ植民者の中の王党派の協力を期待しますが、結局は王党派からの本格的な協力を得るというような事実は起きず、それでもイギリス軍は装備や訓練の面でなかなかの強さを持っていたと言われていますが、アメリカ軍は数で勝っており、戦闘は膠着状態に陥ります。また、アメリカ植民者は狩りのための銃を日常的に必要としていたため、工夫を重ねて射程の長い銃の開発に成功していたため、それがアメリカ側に勝利をもたらしたとの話もあるようです。
いずれにせよ、戦闘の真実の決着は英米両軍の実力によるものではなく、ヨーロッパからの介入によってもたらされます。アメリカ大陸での「内戦」を、雪辱の好機と見たフランスがアメリカ軍を支援し、ヨーロッパでも戦争の準備に入ります。イギリスとしてはアメリカに注力したい局面でありながら、フランス艦隊の動きにも注意しなければならないという二正面作戦に迫られ、フランス国王とスペイン国王は親戚ですから、スペインの動きに目配せしなければならないという、困った状況に追い込まれます。結果としてアメリカ東海岸方面に於ける海上連絡も必ずしも思うように進まず、アメリカ軍が徐々に勢いをつけ、最終的にはヨークタウンのイギリス軍を包囲し、イギリスが降伏したことで、戦争集結の道が開かれます。1783年にパリで休戦条約が結ばれ、1787年にアメリカ合衆国憲法が制定され、1789年に初代大統領としてジョージワシントンが選ばれます。世界史に大きな影響力を持つアメリカ合衆国の誕生です。
アメリカ独立戦争は、単に地理的な意味での分離独立運動だっただけでなく、王権の否定という市民社会の理念がその精神的支柱でもあったため、アメリカでは今も独立戦争とは呼ばず、革命と呼んでいます。また、ヨーロッパの国際政治に巻き込まれるのは嫌だという発想が強くなり、モンロー主義も根強い理念として生き続けていくことになります。イギリスはこの戦争でネイティブアメリカンの部族からの協力を得るためにいろいろな約束をしていたらしいのですが、イギリス敗戦でそれらの約束は履行されず、怒ったネイティブアメリカンたちがアメリカと戦うという展開もあり、古い西部劇では「インディアン」が悪者に描かれるというパターンが増えるという現象につながります。尤も、第一次世界大戦の時にそうであったように、イギリスがネイティブアメリカンとの約束をたとえ戦争に勝ったとしても履行していたかどうかはかなり疑わしいようにも思えます。フリーメイソンがアメリカを作ったという話もあるみたいですが、本当にそうだとしても別にそれはそれでいいのではないか、目くじらを立てて声を荒げて論争しなければならないような問題でもないでしょうと個人的には思います。いよいよ近代です。