近世ヨーロッパの歴史を語る上で欠くことができないのが宗教戦争です。ヘンリー8世が英国教会を作ったことで、イギリスでは英国教会派とカトリック派の激しい殺し合いが起き、エリザベス1世がメアリスチュアートを処刑するという悲惨な出来事が起きたのも、このような宗教対立の一環として起きたことと言えます。フランスでもユグノー戦争があり、その過程でヴァロア王朝が滅亡し、ブルボン王朝のアンリ4世が宗教的融和を目指したものの、ルイ14世の時代にカトリックへの回帰が見られました。宗教戦争は単なる信仰の問題に留まらず、フランス国王ブルボン家対神聖ローマ皇帝ハプスブルク家の覇権争いという別の要素が入り込み、更に複雑なものへとなっていきます。もう少し言えば、スペイン国王はハプスブルク家が握っていましたが、カルロス2世を最後にブルボン家の国王が誕生しており、少なくとも西方ではブルボン家有利、時代は前後しますが、東方に於いてはウエストファリア体制の確立によってハプスブルク家が窮するという展開を見せています。
ドイツで行われた30年戦争を経てウエストファリア体制は、1648年にウエストファリア条約が締結されたことによって出来上がった、ヨーロッパ世界初の国際協調体制であり、一般にウエストファリア条約が最初の国際法、ウエストファリア体制が最初の近代的国際秩序などと説明されるようです。ウエストファリア条約によってカトリックとプロテスタントとの間で行われた宗教戦争は終結し、ヨーロッパがようやく「平和」という概念を大切にするようになり始めたと考えることもできるかも知れません。
ウエストファリア体制の大きな特徴は、神聖ローマ皇帝の座を握っていたハプスブルク家の勢力が大きく減退したというところにあります。かつてローマ教皇を凌駕するほどの強大な権力と権威を維持していた神聖ローマ皇帝ですが、ウエストファリア体制が確立した後は大きく大権が縮小されることになり、300にも及ぶとされるドイツ諸邦の事実上の独立が実現することとなり、ハプスブルク家は名目的な皇帝権及び実質的な幾つかの国の君主権(こっちは普通に君主)を保つ程度にまで力が縮小してしまうことになります。そもそもカトリック対プロテスタントという枠組みで行われた戦争であったにも関らず、カトリック教徒のフランス国王ルイ13世が同じくカトリックの盟主として振舞っていた神聖ローマ皇帝のハプスブルクに対抗してプロテスタント側についたというあたり、世知辛いというか、ヨーロッパ情勢は複雑怪奇との思いを抱かざるを得ません。
神聖ローマ帝国が消滅するのは19世紀初頭、ナポレオン戦争の時代であり、それまで神聖ローマ皇帝は存続しますし、第一次世界大戦が終わるまではオーストリア・ハンガリー帝国を維持し続けたという意味ではハプスブルク家は長くその命脈を保ちますし、今も子孫はいて、多分、超絶なお金持ちですから、盛者必衰とは言うものの、私もハプスブルクの家に生まれたかったなあなどとふと思わないわけでもありません。ハプスブルク家で一番有名な人物はマリア・テレジアとその娘のマリー・アントワネットで、特にマリー・アントワネットがぶっちぎりで有名と思いますが、ハプスブルクとブルボンの政略結婚でルイ16世のところにお嫁に行き、フランス革命に巻き込まれてしまいます。考えてみれば、ルイ14、15、16世が戦争をやりまくって、しかも多くの場合に失敗して財政難に陥ったことがフランス革命の主たる要因とも言えますから、それをマリー・アントワネット一人の贅沢に責任が押し付けられたように語られることがあるのは、どうしても気の毒に思え、婚家の失態を背負わされているとも言える彼女は重ね重ね気の毒に思えてなりません。
ハプスブルク家はドイツ語圏を中心にその勢力を保っていたわけですが、ウエストファリア体制確立後は、ホーエンツォレルン家のプロイセン王国がドイツ語圏を凌駕するようになり、プロイセン王国はやがてドイツ帝国を称するまでに強力な存在感を示すようになりますが、こちらもウイリヘルム2世の時代に第一次世界大戦で敗戦し、ドイツ帝国は消滅するという運命を辿ります。
まあ、いずれにせよ、ナポレオン戦争に至るまでは、ウエストファリア体制は揺れつつも存続したといえる枠組みですし、国際協調は私たち日本人のテーゼみたいなものだと私は思いますから、知識として知っておくことは損はないように思います。