ビザンツ帝国の滅亡‐コンスタンティノープルの陥落

ローマ帝国が東西に分裂し、西ローマ帝国が滅亡した後も、東ローマ帝国は強力な存在感を持ち続けます。東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世による旧西ローマ帝国領の回復事業は凄まじいもので、フランク王国とウマイヤ朝を除いたかなりのエリアを帝国の版図に組み込んでいきました。東ローマ帝国はビザンツ帝国と呼ばれるようになり、だんだんと古代ローマ的な要素を失っていきましたが、古代の芸術作品や著作を多く保存していたことが、後のイタリアのルネサンスへと道を開いていくことになります。

強力だったビザンツ帝国ですが、ビザンツ皇帝のギリシャ正教とカトリック教皇との対立が深まり、版図もじわじわと縮小し、西にはカトリックの圧力があり、東にはムスリムの圧力があるという、なかなか苦しい立場へと次第に追い込まれて行きます。

特にビザンツ帝国にとって大きな打撃になったのは、西欧からやってきた十字軍で、十字軍はエルサレムをキリスト教徒の世界に回復させるという大義名分を掲げつつも、第四回十字軍の派遣ではビザンツ帝国の首都であるコンスタンティノープルを占領するという暴挙に出ます。黒海と地中海の双方に突き出る形で存在するビザンチウムは交易の重要な拠点にもなっており、その富を狙って十字軍が途中で方針を変更し、ビザンチウムへとなだれ込んだというわけです。

十字軍って、ちょっというか、かなり質が悪いのではと思わなくもないですが、それを許してしまう程度にビザンツ帝国が衰弱していたことをも示すものかも知れません。

その後、ビザンツ帝国の亡命政権が各地に作られますが、その後、次第に力をつけていき、帝国の復興に漕ぎつけます。しかし、ここでモンゴル人の襲来があり、それによってほぼ存在感を失うという運命を辿ります。経済的にもベネチアの商人たちが活躍の中心になり、コンスタンティノープルはほとんど忘れられたに等しいありさまになってしまいます(ちょっと言い過ぎかも知れませんが…)。

古代ローマを引き継ぎ、仮に共和制ローマから数えるとすれば、2000年近い歴史をほこるビザンツ帝国でしたが、最終的にはオスマントルコ帝国に首都が包囲され、帝国はコンスタンティノープルのみがその版図という危機的状況に陥りました。ボスポラス海峡の制海権を握ったオスマントルコ皇帝メフメト2世は、コンスタンティノープルの外周に城壁を建築し、長期戦の構えを見せた一方、ビザンツ帝国はヨーロッパに援助を求めたものの、まとまった援軍が到着することはなかったと言います。コスマントルコ皇帝は数万人のエリート軍団イエニチェリとその数倍規模の歩兵を持っていましたので、もはや勝敗は明らかとも言えましたが、ヨーロッパの籠城戦は10年でも20年でも延々とやり続け、攻める側が根負けして帰っていく、或いは補給等々の関係から戦線の維持が難しくなり帰っていくというパターンもありますから、そこはなんとか希望をつなぎ、時間を稼いで、神の恩寵を待ったのかも知れません。また、籠城戦が長引けば、ヨーロッパの事情が変わって援軍が来るという期待も持てます。

しかしながら、1453年5月29日、メフメト2世の命により総攻撃が開始され、オスマントルコ軍は城内への侵入に成功します。ビザンツ皇帝ユスティニアヌス11世は戦死したと言われていますが、どのように戦死したのか、誰に打ち取られたのかといったような詳しいことは分かっていないようです。

コンスタンティノープルの陥落により、キリスト教社会とムスリム社会との力関係が大きく変化し、オスマントルコはヨーロッパにまで支配地域を広げます。一方で、地中海、黒海の貿易がオスマントルコ帝国に握られることになったことで、ヨーロッパ人は大西洋に活路を見出そうとし、大航海時代の幕開けともなりました。また、ビザンツ帝国からの亡命者によってヨーロッパに古代ギリシャ・ローマの芸術と知識がもたらされ、ルネッサンスのきっかけにもなって行きます。数十年、または百年くらいの長さで考えれば、オスマントルコの圧倒的勝利と言えますが、もう少し長いスパンで捉えるとすれば、ヨーロッパの世界支配のきっかけにもなったとも言え、オスマントルコ帝国は第一次世界大戦で解体されてしまいますから、禍福は糾える縄の如し、諸行無常、盛者必衰の感もなくもありません。

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