メロヴィング朝‐パリの登場。ヨーロッパの誕生。



西ローマ帝国が滅亡した後、東ローマ帝国の支配が及ばない地域では、戦国時代的な群雄割拠の状態に陥ります。そのような混乱期の中で、フランク族と呼ばれる人々が着実に勢力を拡大し、クローヴィス1世の時代にフランク王国を確立します。一般に、メロヴィング朝と呼ばれるものです。

フランク王国はメロヴィング朝時代とカロヴィング朝時代に区分可能で、ここではメロヴィング朝がメインになりますが、クローヴィス1世がその最初の国王となった時の特筆すべき点として、パリに都を定めたことを挙げることができると思います。フランスはガリアと呼ばれ、パリはセーヌ川に浮かぶシテ島に人々が居住し、セーヌ川が天然の要害となって彼らを守った一方で、バイキングがセーヌ川を遡上してシテ島に迫り、帰ってもらうためにお金を払うという、なかなか苦労の多い歴史を経験していますが、クロヴィス1世が西ヨーロッパの大半を支配する巨大なフランク王国を確立し、その都をパリに定めたことで、パリは素朴な一地方都市から一転して、西ヨーロッパ世界の首都、今日に至る花の都パリの原型となっていきます。これをしてヨーロッパの誕生と呼んでもいいでしょうし、中世の始まりと呼んでもいいのかも知れません。

フランク王国によって確立された「ヨーロッパ」は、世界史的に見れば、世界の周縁の立場に過ぎず、最も繁栄していたのは東ローマ帝国、即ちビザンツ帝国であり、ビザンチウムが世界の中心であり、ビザンツ帝国と対峙する形でウマイヤ朝がその勢力を伸ばしていくというのが、全体的な構図であったと言えます。フランク王国はフランク族の遺産分割の発想から分割と統一を繰り返しますが、その過程に於いて、ドイツとフランスというヨーロッパの双子が確立されていくことになったと言うこともできるように思えます。ドイツはゲルマン系であり、フランスはラテン系ですから、言語の体系にも相違が見られますから、双子と呼ぶのは言い過ぎ…かもしれないですが、フランク族そのものが、フン族の西方進出によって引き起こされたゲルマン民族の大移動によりヨーロッパ各地に散った諸族の複合体である側面があったことや、その後、フランスとドイツの相克がヨーロッパ史の基本みたいになっていくことも考慮すれば、良くも悪くも双子と形容して、さほど本質を外していないようにも思えます。

クローヴィス1世の時代に、更に特筆すべきことは、彼がアタナシウス派(要するにローマ教皇を頂点とするカトリック)に改宗したことが挙げられるかも知れません。アタナシウス派の最も大きな特徴は、イエスキリストを人として捉えるのではなく、神の一部であるとする、即ち三位一体を教義の主たる要素に入れていることです。父なる神と子であるイエスと更に聖霊が一体となって全知全能の唯一神であるというのは、なんとなくわかりにくいというか、イエスが人だと何か不都合でも生じるのかというあたり、疑問はどうしても残るのですが、ゴルゴダの丘で磔刑に処せられたイエスを見捨てて逃げ出した弟子たちの悲痛な思い、心の叫びによってこのような三位一体説が形成されたのではないかという気がしなくもありません。弟子及び、その後継者を自認し、皇帝ネロの迫害にも耐え、教えを守り抜き、発展させていった以上、イエスはただの人ではなく、神でなくてはならなかったのかも知れません。

それはそうとして、メロヴィング朝は300年ほど続き、あたかも西ローマ帝国の復活を思わせるほどの強さを見せますが、やがて国王よりも宰相がより強い力を持つようになり、宰相によりカロヴィング朝が開かれることになっていきます。有名なところではカール大帝で、名目上とは言え、ローマ教皇から西ローマ皇帝として公認されることになり、やがてそれは神聖ローマ帝国へと引き継がれていきますが、それについてはまたあらためて。

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