ゲルマン民族の大移動と西ローマ帝国の滅亡

コンスタンティヌス一世によって東西に分割される状態が固定化したローマ帝国は、その後の明暗がはっきりと分かれていきます。東ローマ帝国が15世紀ごろまで存続したのに対し、西ローマ帝国は黄昏て行き、5世紀には滅亡します。

4世紀後半、フン族が黒海北岸あたりに登場し、ヨーロッパの諸民族を圧迫します。彼らが何者でどこから来たのかははっきりとは分かりませんが、中国の歴史に登場する北方騎馬民族の匈奴と同じ人々ではないかと考える人々は多いようです。ハンガリーやフィンランドはフン族の子孫によって構成されていること、少なくともハンガリー語はトルキスタン系の要するにユーラシア大陸内陸騎馬民族の言語を使用していることなどから、そのように考えられています。とはいえフィンランド人もハンガリー人も我々日本人の目から見るとどちらも正真正銘の白人に見えますし、ハンガリー人はスラブ系みたいに見えますから、相当に混血が進んだのかも知れません。まあ、そのあたりははっきりとは分かりません。フン族の王アッティラは東ヨーロッパを中心にアレクサンダー大王を連想させる広大な領地を持つ王国を作りましたが、この大王国はアッティラの死後、解体していき、現在のハンガリーの人々やフィンランドの人々へと分散していくことになります。

いずれにせよ、このフン族の西方移動により、ゲルマン系の諸民族であるサクソン人、アングロ人、ゴート人などが圧迫されて西方へ移動することになり、西ローマ帝国の領域へと入ってきます。彼らがクラリス姫のご先祖ということになります。ケルト系の人々はゲルマン系の人々に追い込まれ、アイルランドやスコットランドで暮らすようになるわけです。ゲルマン系の人々にとっては生活の場が失われてしまった状態ですので、西ローマ帝国侵入は決死のサバイバルであったに違いなく、守る側の西ローマサイドも相当に苦労したに違いありません。有名なものとしてハドリアノポリスの戦いがあり、この時は東西ローマが統一して戦線に臨みましたが、先陣に立った皇帝が戦死するという展開になってゴート人が勝利し、ローマ帝国域内でゴート人が生活圏を得るということで休戦になります。

西ローマ帝国に衰亡は激しく、410年には西ゴート人がローマに侵入し、略奪戦が繰り広げられます。西ローマ皇帝ホノリウスはラヴェンナに居ましたので、帝国そのものがローマを見捨てたとすら言ってもいいかも知れません。略奪は3日に及び、市民の多くが殺されるか奴隷にされるという悲劇が生まれます。キリスト教の施設は破壊を免れたとも言われていますので、ゴート人にもキリスト教が相当程度認知されていた、或いは信徒が増えていたのかも知れません。

475年、既に西ローマ帝国の実質的支配地域は少なく幾つかの属州でそれぞれに執政官が仕事をしている程度にまで縮小していましたが、西ローマ皇帝が過ごすラヴェンナを占領し、皇帝ユリウス・ネポスを追放して自身の子を皇帝に即位させます。その子はロムルス・アウグストゥスといういかにも気取った風な名前を名乗りましたが、翌年476年に傭兵隊長オドアケルによって廃位されます。一般にはロムルス・アウグストゥスの廃位によって西ローマ帝国の滅亡とされますが、元老院による帝国解散の決議という手続きも踏まれたそうです。力でねじ伏せたオドアケルとしては、そのような手続きはどうでもいいものだったかも知れないですが、ローマ法を重んじる市民を納得させるために必要だったのかも知れません。オドアケル本人が西ローマ皇帝を名乗ることはなく、東ローマ皇帝に臣従する姿勢を示したため、ローマ帝国は図らずも統一されたとも言えますが、東ローマ皇帝がその後、旧ローマ帝国の回復を目指したものの、それが完全になされることはありませんでした。こうしてヨーロッパは中世へと歴史のパラダイムを移していくことになります。

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