ローマ帝国の黄昏

五賢帝の安定した時代が終わった後、帝政ローマの歴史の中で「危機の3世紀」と呼ばれる時代があります。軍が皇帝を擁立しては廃帝にすると繰り返し、元老院がそれを(まあ、まず間違いなく多分にしぶしぶ)認めるということが繰り返されるようになります。軍の内部の争いがそのまま国政に反映されるという状況であったとも見ることができるかも知れません。

更に、各地で自称ローマ皇帝が乱立するようになり、元老院の認証を受けた「本物」の皇帝がそれら偽物を討伐するのに忙しく、そんなことをしている間に軍の本体から見捨てられるの繰り返しであり、さながら日本の戦国時代のような様相を呈して来ます。そのような事態をどうにか収拾させる目途をつけようとしたのがディオクレティアヌスです。皇帝を二人置き、副帝を二人置き、この四人で帝国を分割して支配するというもので、ディオクレティアヌス本人はトルコ、シリア、エジプトという中東地域を支配します。このような支配方法はそれぞれのパワーバランスや政治的駆け引きなど微妙なところをディオクレティアヌスの手腕によってなんとか秩序を保つというやり方であったため、ディオクレティアヌスが政治を引退した後に再び混乱し始めます。

その混乱を押さえて再び帝国を統一したのがコンスタンティヌス1世です。軍人たちなどの間でキリスト教徒が増えたことなどを背景に、自信の母もキリスト教徒だったこともあって、彼はミラノ勅令やニケーア公会議などを通じてキリスト教を公認する政策を選んでいきます。コンスタンティヌス1世は自身の拠点をビザンチウムに置きますので、ローマは実質的に地方都市の地位へと転落します。コンスタンティヌス1世はライバルを死に追い込むなどして唯一の専制君主となり、帝国は一時安定したかに見えるようになります。コンスタンティヌス1世は亡くなる直前にキリスト教の洗礼を受けており、同様の形で人生の幕を閉じた吉田茂を連想させます。

その後、ローマ帝国は共同皇帝を立てるなど、東西ローマ帝国が同じ国なのか違う国なのかよくわからなくなっていきますが、キリスト教を国教にしたテオドシウス1世が一旦、完全に統一した後で二人の息子に帝国を半分づつ継承させ、395年にローマ帝国は東西に完全に分離することになりました。既にゲルマン民族の大移動が始まっており、西ローマ帝国は百年も待たずに滅亡していきますが、コンスタンティノープルに都を置いた東ローマ帝国はその後更に1000年の長い期間にわたって存続し、影響力を保ち続けていくことになります。

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