ユリウス・カエサルを出発点に古代ローマは共和制から帝政へと移行していきますが、当初、カリギュラやネロのような「暴君」、または「暗君」を排出する事態に至り、ローマは分裂、内乱の状態に突入します。キリスト教を迫害したことで知られるネロ帝が自死せざるを得ない事態に追い込まれた後、一年で四人の皇帝が擁立された四皇帝の年と呼ばれる異常事態を経て、ネルウァ帝の時代からローマは安定に入り、再び拡大し始めます。ネルウァ、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニウス・ピウス、マルクス・アウレリウスの五人の皇帝の時代で、『ローマ帝国盛衰史』を書いたギボンはこの時代を理想的な平和と繁栄の時代のイメージで語っています。
しかし、ネルウァ帝の場合、就任後も周辺では暗殺や陰謀が頻発し、自身も近衛兵に軟禁されて信じていることを断念させられており、本当にギボンの述べたような平和と安定の時代で語っていいかは多少の疑問も残ります。政争に敗れたネルウヮ帝が、後継者として養子のトラヤヌス帝を指名することで、政局は安定し、トラヤヌスへの帝位継承は円滑なものであったといいます。
トラヤヌスは戦争に強かったことで現代まで知られており、ダキア(現在のルーマニア)遠征を成功させ、同時期に中東のナバテア王国も併合しています。現代人の感覚から言えば、絶好調に「侵略」していたとも言えますが、ヨーロッパ人の目から見れば、ヨーロッパ世界の拡大に貢献したという意味で、いい皇帝だったということになるのかも知れません。トラヤヌスはその後も、アルメニア、メソポタミア、アッシリアへと征服戦争を続けていき、ローマ帝国史上最大の版図を得ますが、形成が悪化する中で戦地で病没してしまい、トラヤヌスの遺言にしたがい、帝位はハドリアヌスが継承していきます。
ハドリアヌスはトラヤヌスの拡大路線を放棄し、ユーフラテス川以東の属州の放棄を決断します。また、ブリテン島では、これ以上北上しても苦労なだけだと考え、現代で言えばだいたいイングランドとスコットランドの間あたりの地域にハドリアヌスの長城を建設し、国境線とします。ハドリアヌスは国内のインフラ強化を重視しており、現代まで残るローマ風建築物を各地に作らせました。カリオストロの城のローマ水道もハドリアヌスの時代に作られたものではないかと想像すれば、軽くムネアツです。
その次のアントニウス・ピウスもまた、帝国の版図拡大に関心はなく、軍隊とも距離を保っていたとされており、平和を愛する人というイメージで語られます。「ピウス」とはラテン語で慈悲深いという意味があるらしく、元老院からピウスという称号を贈られたあたり、同時代人の目から見ても温厚な人であったと言えそうです。ハドリアヌスの長城よりもうちょっと北に行ったところにアントニウスの長城が建築されますが、おそらくそのあたりのある種の小競り合い程度の戦争しか起きていなかったらしく、ようやくここに来て、ローマの平和、パクスロマーナが実現されたと言ってもいいのかも知れません。アントニウス帝はローマ法の整備にも手をつけ、奴隷解放を促進し、ローマ市民権のハードルを下げます。ローマ法が今日至るまで近代法のお手本みたいにしてもてはやされる基礎が作られたとも言えそうです。ただし、ローマ市民の急速な拡大は、奴隷労働によって維持されていたローマ人の特権的な生活基盤を危うくするものへともつながっていったため、何事も痛しかゆし…。というところかも知れません。
アントニウス帝が病没した後に帝位を継承するのが哲人皇帝として名高いマルクス・アウレリウスです。穏健に理性的な行動と思考を旨とするストア派の学問を身につけた彼は、『自省録』で真理や観念、生死などについて考えたことを散文風に綴っていますが、編纂したのは別の人物ではないかとも言われています。まあ、そのあたりは永遠に分からないでしょうけれど、哲学を学んだ文人風の人がローマ皇帝の仕事をしたというのは好印象です。そうは言っても戦争を全然しなかったというわけでもはなく、ゲルマニアでの反乱鎮圧に忙殺される日々を送る最中、マルクス・アウレリウスも戦地で病没しています。ただし、トラヤヌス帝のような征服戦争ではなく、治安維持または領域防衛のための戦争ですので、ちょっと意味合いは違ってくるかも知れません。マルクス・アウレリウスが亡くなってしばらくすると皇帝が擁立されては殺される軍人皇帝時代に入り、東西ローマの分裂、ゲルマン民族大移動、西ローマ帝国の滅亡まで暗い時代へと入っていくことになります。
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