帝政ローマとキリスト教

ナザレのイエスがゴルゴダの丘で受難を迎えた時、ローマ皇帝はティベリウスでした。当時のイスラエルは帝政ローマの属州の一つであり、当時はピラトが総督として派遣され、ユダヤ教の長老たちの協力を得て支配を進めていた時代です。

イエスがエルサレムに入り、反対派から「このコインは誰のものか?」というある種の頓智問答を迫られ「カエサルのものはカエサルに(皇帝のものは皇帝に)」という頓智の利いた切り返しをしたことは有名ですが、通貨の発行と流通は当該の地域の主権は誰が握っているのかを明らかにする分かりやすい指標とも言え、敢えて説明しなくとも、カエサルのものはカエサルにという言葉だけで、当時のイスラエル地方を支配していたのはローマ帝国であるということが分かるようになっています。

イエスが受難した後、ペテロがローマ帝国域内で熱心に布教をしことから現代まで続くローマカトリックの初代教皇はペテロであるとされており、今に至ってもペテロの名を持つ教皇は初代のみで、ペテロ2世は現れておらず、それだけでもペテロという存在がローマカトリックにとって如何に大きなものであるかをうかがい知ることができます。

当初、ローマ帝国はキリスト教を迫害し、特にネロによる迫害がつとに知られています。皇帝ネロは狂気性を帯びた芸術家肌の人で、才能が十分にあったかどうかはともかく、そういう方面を愛した人ですから、その狂気性によってキリスト教徒を迫害したのだとする指摘がある一方で、当時、一般的なローマ人が多神教を信じたことから考えると、一神教を信仰することは受け入れがたく、ネロの迫害は当時の常識としては普通であるとの指摘もあるようです。このあたりは当時を生きた人でなければ分からない、判断のつかないことかも知れません。

愛と赦しを説くキリスト教はその後も人々の間に広まり、コンスタンティヌス1世はミラノ勅令(並立するリキニウス帝と共同で発したと一般的にされているもの)を発し、その後、コンスタンティヌス1世の全ローマ統一が行われた後にニケア公会議によってキリスト教がローマ帝国公認の宗教へと育っていくことになります。旧約聖書の原文がヘブライ語であったのに対し、新約聖書の原文がギリシャ語で書かれたという事実は、ローマ帝国が世界の征服者であった当時であっても、ギリシャ語には高い権威が備わり、共通語としての性質を持っていたことを示すものですが、同時に、新約聖書がよくよく吟味されて編集・整理されたものであるということも示しているように思えます。後にキリスト教はローマ帝国の国教になるわけですが、それに従い、古代ローマの神話に基づいて制作された芸術品などは多く廃棄されたとも言われています。

ローマ帝国はコンスタンティヌス1世の時代からその中心をコンスタンティノープルへと移動させていき、コンスタンティノープルはキリスト教の東方教会の聖地として大いに繁栄していきます。ローマは西ローマ帝国の都ではあるものの、全体的には第二都市の地位へ転落することになります。ローマ帝国の分裂については日を改めて書いてみたいと思います。

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