カエサルが暗殺された後、生前に書かれた遺書によって第一相続者に指名されたのが、カエサルの養子であるオクタヴィアヌスであり、彼が後に最初のローマ皇帝の地位を得ることになります。必ずしも、さっと皇帝になったわkではなく、長い長い政治的闘争を経て、元老院に対しても帝政や王政とは違うものだと間違った認識を持たせるように努め、漸くにして手に入れたものです。彼は後にアウグストゥスと名乗り、これは英語のaugustで8月のことですが、カエサルもjuliusという名前が7月を意味するjulyになっており、暦の支配が世界の支配を意味するということを分かりやすく示す事例のようにも思えます。
当時、ローマの軍隊は多くの場合大物政治家の私兵であり、たとえば属州に派遣されたらそこで私兵を集めるとか、あるいは中央にいても権力争いに勝利するために私兵を集めるということが常態化していたようです。
オクタヴィアヌスも同様に私兵を養い、かつてカエサルを殺した犯人たちは政敵、論敵を抑え込んでいくことを目指します。また、完全に力を持つまでは合従連衡を繰り返し、三頭政治を行うなど、悪く言えば狡猾に行動していたようにも思えます。この政治闘争の渦中で、散文家として著名なキケロが殺害されています。徐々に勢力を拡大したオクタヴィアヌスは古代ローマの西半分を手にしますが、東半分は政敵のアントニウスが握っており、クレオパトラのプトレマイオス朝エジプトとも同盟していたため、アントニウスの勢力は安泰なままでしたが、オクタヴィアヌスがローマ市内でアントニウスのネガキャンを張り、アントニウスはエジプトでクレオパトラと暮らしていたために情報戦で窮地に立つことになります。そしてその後、アクティウムの海戦でオクタヴィアヌスが勝利し、アレクサンドリアに撤退したアントニウスとクレオパトラが自ら命を絶つという悲劇を経て、名実ともにローマの最大権力者になるわけです。
ただし、オクタヴィアヌスはおそらく政治的なセンスに人一倍長けていた人らしく、ローマに凱旋した後に、執政官以外の権力を元老院に返上すると宣言し、共和制の維持を明らかにします。元老院は驚嘆し、オクタヴィアヌスへの信頼を深め、共和制維持の宣言の三日後に、「インペラトル・カエサル・アウグストゥス」(全ての権力を持ち、絶対的な尊厳を持つ者=皇帝)の称号を贈ることを全会一致で決定します。まず間違いなく、元老院は飽くまでも形式的な名称に過ぎないと思っていたでしょうし、実際的に強い力を持つオクタヴィアヌスのご機嫌を取らなくては自分の身が危うくなるとの危機意識も働いたうえでのことと察することができます。
オクタヴィアヌスはその後40年にわたり、インペラトルの地位を保ち続け、その後、それを世襲するという政治体制を作り上げていきます。ただし、オクタヴィアヌス本人が後継男子に恵まれず、彼の外戚にあたるクラウディウス家の人物が五代にわたり、皇帝を継承していきます。これをユリウス・クラウディウス朝と呼びますが、長いローマの歴史の中で、王朝も交代していくことになります。それについてはまたいずれ。