千年続いた古代ローマの出発点は王政で、狼に育てられたという少年ロムルスによってされたとローマ神話では伝えられています。ロムルスはトロイアの末裔ということになっていますので、ローマ人がギリシャ人とある程度の神話や伝承、記憶を共有しており、同時にロムルスがトロイアの末裔であるということで、ギリシャ人とは違う民族であるという自意識を持っていたということも、ここから導き出すことが可能のように思えます。
ロムルスは王政を確立しましたが、ある雷鳴の日にロムルスは行方不明となり、その後、王は世襲ではなく市民によって選ばれるようになっていきます。終身大統領に近いイメージのものかも知れません。その後、王位がエトルリア人によって独占されるようになり、ローマ市民がエトルリア人を追放し、執政官と元老院による共和制が開かれていきます。
この仕組みは大いに成功し、共和制ローマは拡大してゆき、その分、周辺諸国との軋轢が強くなっていきます。拡大するローマの版図の前に立ちはだかり、死闘を繰り広げた国として有名なのがカルタゴであり、カルタゴの武将であったハンニバルは、ローマ付近までせし寄せ、ローマ市民を震え上がらせたことでその名が知られています。
ローマとカルタゴの戦いはポエニ戦争と呼ばれていますが、第一次ポエニ戦争ではカルタゴが海戦で破れてローマに降伏し、一旦、それで状況は沈静化します。しかし、カルタゴの繁栄はその後も続き、ローマ議会ではカルタゴを滅ぼすべしとの声が盛り上がっていくようになります。カルタゴでもローマへの憎悪は忘れられることはなく、ハンニバルもまた、ローマに対する敵意を教え込まれて育ったと言います。第一次ポエニ戦争以降、制海権はローマが握っていたため、ハンニバルはスペインからアルプス山脈へと移動し、同山脈を越えて陸路ローマに到達するという作戦を立て、実際に象たちと兵士たちを連れて不可能と言われたアルプス越えを果たします。
ローマではハンニバル迫るの報に接して恐慌状態に陥りますが、カルタゴではハンニバルを全面支援するかどうかで意見が割れており、ハンニバルが勝てば良し。負ければ、うちは知りません。彼が独断でやったことです。で乗り切ろうとします。アルプス越えを果たした時点で兵力の損耗が激しかったハンニバルは本国からの支援が得られないままの状態でも、信じられないことに緒戦での勝利を果たします。また、ハンニバルは短期決戦を避け、ローマ周辺の諸都市を陥落させてローマを兵糧攻めにするという計略で動いていきます。
一方、ローマのスキピオがハンニバルの輸送経路(即ち生命線)であるスペインを攻略し、慌てたハンニバルがスペインへ撤退。主戦場は北アフリカのザマに移り、ザマの戦いでスキピオのローマ軍がハンニバル軍を包囲することに成功。ハンニバル軍は事実上の全滅へと追い込まれます。
その後、カルタゴは再び降伏し、ハンニバルはカルタゴ再興に力を尽くします。しかし、ローマ側はハンニバルの追い落としを狙い、ハンニバルはシリアへ亡命。その後、ローマの追手に追い詰められて自ら命を絶ったとされています。カルタゴは完全に破壊され、草木も生えぬ荒地にすることを目的に塩までまかれたと言われており、ローマがいかにカルタゴを恐れたかを示すエピソードであるとも言えます。
ローマとカルタゴの死闘の結果、勝利者となったローマは属と州を増やし、地中海世界の覇権を握り、ローマの平和を確立していくようになります。
イタリアではお母さんが子どもをしかりつけるときに「ハンニバルが来るよ」みたいに言うらしいのですが、如何にハンニバルが強く記憶に残ったかを示すものと言えるかも知れません。
アレクサンダー大王の記憶がインドやアフガニスタンのような東方世界で伝承されているという着想でショーンコネリーの出演している『王になろうとした男』が制作されましたが、アジア各地の王族がジンギスカンの子孫を名乗ったり、ロシアには「タタールのくびき」という言葉が残っていたりで、人類の歴史にやたらと強烈に印象に残る人物は、たとえその活躍期間が短かったとしても語り継がれていくものだというのは興味深いことのように思えます。
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