かつて単なる神話と考えられていたトロイ戦争が、シュリーマンの発掘によって大体、それに類似したことは起きたのであろうと言われています。トロイ戦争はギリシャと小アジアの間で起きた戦争であり、ヨーロッパとアジアの対立軸というダイナミズムを人々に認識させるものであり、そういう点から歴史の始まりとも言われます。トロイ戦争、いわばヨーロッパvsアジアの第一回戦はギリシャ側、即ちヨーロッパ側が勝利したわけですが、その第二回戦とも言えるのがペルシア戦争です。やがてペロポネソス戦争に至り、私は個人的には古代の世界大戦と呼んでいます。
さて、それはそうとして、ペルシア戦争についてはヘロドトスの『歴史』がほぼ唯一の資料とされており、ペルシア戦争について語る書物はだいたいヘロドトスを元ネタにしているはずですから、新選組関連の著作が子母澤寛を元ネタにしているのと同じ構図といえるかも知れません。
アケメネス朝ペルシアはアジアですから、人口も多く、相当に豊かな帝国であったらしく、圧倒的な兵力でイオニア地方の諸都市国家を征服します。当時ギリシャ世界は民主制のアテネや国王のいるスパルタなどが激しく抗争している状態でしたが、アケメネス朝ペルシアの拡大に対抗する必要上、一つにまとまっていきます(ペルシア戦争の後に、再び分裂し、ペロポネソス戦争へと展開していきます)。
話題としてよく取り上げられるのは、マラトンの戦いではないかと思います。イオニア地方で起きた反乱を鎮圧したペルシア王ダレイオス一世がエーゲ海の島々を攻略した後にギリシャ半島本土に上陸、アテネを目指します。兵隊の数はペルシア側が圧倒的で、諸説あるようですが、ギリシャ側とは二倍くらいの戦力差はあったようです(ただし、外地を征服するのに兵力差が二倍程度では、ちょっとこころもとないのではと個人的には思えます)。
彼我兵力差を乗り越えて勝利を目指すアテネ軍は長距離を移動した上での奇襲を強行し、集団密集戦法でペルシア軍を敗走させることに成功します。アテネではスパルタに対抗するためにむしろペルシアとの軍事同盟を結ぶべきとの主張を展開する論者もいましたが、マラトンの戦いの結果、ペルシア融和派は追放されることになります。
更にその後、ペルシア王クセルクセス一世が数十万の大軍でギリシャ域内に侵攻し、スパルタ王を戦死させ、一時、圧倒的な優位に立ちます。しかし、その後に行われたサラミスの海戦では逆に戦線の維持が不可能なほどに強い反撃を受け、海上からの支援を失った陸上軍もギリシャ連合軍によって掃討されて行くことになります。クセルクセス一世はペルシアに撤退し、その後暗殺されるという悲劇的な最期を迎えます。ペルシア海軍の隊列が乱れたことが敗因とされているようですが、やはりペルシアは陸の民、ギリシャ人は海の民みたいなところがあって、海上戦ではギリシャにそもそも有利だったのかも知れません。日露戦争の日本海海戦に近いものもあったのかも知れません。ナポレオンがイギリスとの海戦でネルソンに破られますが、やはりイギリスも海洋国ですから、海戦では人材の厚みがものを言う面があるのかも知れません。
アケメネス朝ペルシアの撤退で終わったペルシア戦争ですが、その後、ギリシャ世界が分裂し、ペロポネソス戦争へと発展し、そこにアケメネス朝ペルシアも関わって行きます。そうこうしているうちに古代ペルシアの大王朝は衰退し、滅亡へとつながっていきますが、なんとなく、第一次世界大戦のオスマントルコやロシア帝国を連想させる面もあり、あまり王様の気まぐれで戦争するのはよろしくないということを示しているのかも知れません。強すぎる野心が滅亡を招くということや、味方から敵と内通するデマゴギーが登場することなどは現代に通じる教訓にもなるように思えます。
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