アンナカレーニナとテレーズデスケルウと成瀬美津子

アンナカレーニナはトルストイが描いた自ら不幸を招く愚かな女性の代名詞のように語られる女性です。尤も、村上春樹さんが『神の子らはみな踊る』で、女性登場人物がアンナカレーニナを読み返し、より深く彼女の心の動きを理解できるようになったと書いているように、単に愚かな女性として結論づけて終わるのではなく、それは誰にでもあり得る、誰もが心の内に抱える地獄の一面なのだと考えるとすれば、アンナカレーニナのことを自分の人生と照らし合わせて考えることができるかも知れません。福音書にはイエスの言葉として、天国はあなたの心の内側にあると書かれていますが、人は誰もが心の中に天国と地獄の双方を抱えるのが普通のことであるとの立場を採るとすれば、トルストイの作品を自分の人生に役立てることもできるかも知れません。

遠藤周作さんも女性の心の中の暗い炎のようなものを描くことに大変に熱心であったと個人的には思えます。遠藤周作さんは神と人間の関係性、西洋と東洋の形而上的な対立関係のようなことに関心が深かったため、そういう方面から解説されることも多いですが、その一方で、例えば『スキャンダル』で、女性のある種の野生のようなものと、それに対して強い関心を抱かざるを得ない男性の野生の双方を描こうとしたほか、女性の心を描こうと大変に苦心したことが様々な作品から読み取ることができます。

その代表とも言えるのが、『深い河』の成瀬美津子であり、成瀬美津子は遠藤周作の女性観を集約させたような人物であって、悪女としての性質を存分に発揮しつつ、その物語の最後で聖母のような存在へと生まれ変わっていくという点では遠藤周作さんの願いを込めた存在であるとも言えます。作品中に於いて成瀬美津子が『テレーズデスケルウ』の熱心な読者であることが描かれます。夫を殺そうとして裁判にかけられた恥辱にまみれた女性とも言えるテレーズに対し、成瀬美津子は深い共感を抱きます。自分の内側にある暗い炎、破壊衝動、容易には整理がつかないエロスとタナトスでどうにかなってしまいそうな自分を、テレーズデスケルウに投影しているというわけです。

小説を読んだり映画を観たりという、物語に触れる行為はほぼ例外なく自分を投影する行為と言ってもいいかも知れないのですが、アンナカレーニナとテレーズデスケルウと成瀬美津子は女性が自分を投影しやすい存在かも知れません。『ボヴァリー夫人』を付け加えるのもありかも知れません。また作者が男性ですから、男性が投影した女性像であるとも言え、男と女の深い溝を埋めようとする作業こそ、小説の醍醐味なのかも知れません。

自分を投影するという意味では、男性の場合であれば『マクベス』を読んで、黒沢映画の『羅生門』を観て自分を省みるというのも悪くないかも知れません。

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