ニーチェが生きた時代、世界は産業革命という人による奇跡に湧きました。燃料機関による移動や生産が行われる姿は、人々をして人力を超えるものを人が生み出した、即ち、神の技を人が手に入れたと感じたとして不思議なことではないように思えます。
そして、人が神の技を使えるようになった以上、もはや毎日曜日に神に礼拝をして人生や運命を預けるという習慣そのものにも疑いの目が向けられていくようになります。現代とは少し違うかもしれません。現代では、科学技術の進歩によって神というデザイナーが存在しなければかくも精緻な世界が誕生するはずがないと科学者たちが真剣に考える時代になりましたが、当時は科学技術が「トレンド」になっていたとも言え、ニーチェのツァラストラが言うように、神は死んだと考えるのも無理はないとも思えます。
さて、『ツァラストラかく語りき』の興味深いところは、神なき人の世を人がいかに生きるかについて永遠回帰という視点が用いられているところです。永遠回帰という言葉は、要するに人は何度となく生まれ変わる、輪廻転生を繰り返すというもので、ニーチェの言う「超人」に到達しない限り、その永遠回帰から抜け出すことはできないとしている点です。
何かによく似ているわけですが、仏教的な世界観にとてもよく似ています。仏教でも人は何度となく生まれ変わり、輪廻によって与えられる修行をクリアしたものだけが菩薩になり、仏陀になれるとされています。ニーチェはキリスト教文明を否定しましたが、その結果行きついたのが仏教的悟りの境地を目指せ!という結論だったわけです。仏教の存在は当然に西洋にも知られているものですから、ニーチェもまた当然にそれを知っていたと考えて間違っているとは思えません。キリスト教の神を否定するニーチェが仏教的世界観に新たな境地を見出そうとしたことは大変に興味深いことのように思えます。尤も、古代ギリシャでも輪廻転生の概念はありましたから、そっちのほうの影響のほうが強い可能性も否定しません。
もちろん、ニーチェが絶対に正しいわけではありません。輪廻転生を繰り返すためには、人の魂の永遠性が前提にならざるを得ないわけですが、果たして本当に人の魂が永遠なのかどうかは死んでみなければわかりませんし、死んだ後では生きている人に報告することもできませんから、人にとって死は永遠に未知なものです。
しかしながら、人は死後の世界について考えないわけにはいきません。近く立花隆さんの臨死体験に関する取材についてもブログで書いてみたいと思っていますが、なぜ人が臨死体験なる不思議な経験をするのかについては、唯物論的な立場にたったとしても完全に説明することはできません。臨死体験のプロセスについては取材案件を重ねることで分かっては来ているようですが、なぜそんな経験をするのかは謎なままなわけです。
そういったことも考たうえで、ニーチェの「超人」とはどんなものかについて思案するのも生きている人間の悦びの一つなのかもしれません。