西田幾多郎‐人は世界を経験し、自分になる

西田幾多郎は太平洋戦争の国策推進を思想面からサポートしようとしたとして批判されたこともあったようですが、西田本人は東条英機が全然自分の考えを理解できていないとおおいに嘆いたとも言われています。

西田幾多郎といえば『善の研究』という著名な著作がありますが、果たして彼の言う「善」とはどういうものなのでしょうか。彼は善とは人間が自分を実現することだと述べていますが、ここではそれについてもう一歩深く考えてみたいと思います。

西田は禅の経験を通じ、人は禅によって世界と自己を認識し、やがて世界と自己がアウフヘーベンみたいなことを起こして結合し、それが繰り返されてより高次のものへと発展していくと考えました。我々が生きるこの世界には目には見えないものの、確実に存在する宇宙意思のようなものがあり、世界も人もある特定の方向へと、即ち宇宙の意思を実現する方向へと発展していくというわけです。

発展段階論を唯物論的に説明するのではなく、精神的にも説明しようとした点で、西洋哲学と東洋哲学を融合させようとしたと評価されています。

ここで、「善」とは自己を実現することだということに戻ってみたいと思います。人は生まれてから死ぬということをただただ繰り返しているわけですが、それは無意味な反復というわけではありません。この世界に宇宙意思があるとする前提に立てば、人が生まれるのは宇宙意思にとっては必然と言えます。従って、生まれて来た個人が自分とは何かを突き詰めて探求し、自分の意思を実現させていくことは、宇宙意思にも沿うものであり、必然的にそれは「善」であるということができます。

自己を実現するためには、完全にお気楽便利な世界であっては困ります。何故なら、不都合なことが起き、それを解決しようと努力することによって人は進歩し、自分を理解することができ、最終的に自己を実現することができます。我々が生きている世界は不便なことも不都合なことも多いですし、自分の意に沿わないことが多発することで、悲嘆に暮れることもあれば、生きるのがいやになってしまうこともあります。

しかしながら、自分に意に沿わない現象が起きるのは、自分を実現するために必要なことだと考えることができれば、悲嘆に暮れることはありません。むしろ、不都合なことに出会う度に、より自分は自分を実現できるようになるのだと思うことができるわけですから、世界は不都合な方が好都合というわけです。

如何に生きるかということについて大変に示唆に富んだ哲学ではないかも思えます。

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