フーコー‐権力と権威は内面化する

レヴィストロースが人には固有の文化構造があり、サルトルは人をヨーロッパ人の価値基準でしか判断していないと批判したことから、人の持つ構造へと思想家たちの関心が移り、そもそも人はどんな構造で物事を捉えているのか、或いは構造そのものも取っ払ってしまった方がより真実に迫れるのではないかと考える人々が登場するようになります。それをポスト構造主義と呼びます。

ポスト構造主義者として最も有名な人物がミシェル・フーコーであるということについては、論を待たないのではないかと思います。フーコーは『狂気の歴史』で、狂気は如何にして定義され、分類され、権力によって管理されたかということを明らかにしていきます。誰かが「正常」と「狂気」の間に線引きをしなければ、そもそも狂気なるものは存在しませんから、正常と狂気の間に線を引くという構造を作り出すことによって、同時に狂気も創造されたのだというわけです。

小理屈と思える面が全くないわけでもないですが、かといってフーコーの言うことに明らかな間違いがあるとも思えません。狂気と正常というおどろどろしいところで議論しなくとも、たとえば大人と子供であったり、良い人と悪い人であったり、忠良なる臣民と非国民であったり、更には金持ちと貧乏人とか、法律上〇〇の要件を満たしていれば違法で、そうでない場合は合法とか、違憲か合憲かとか、人の生活にあらゆる面で線引きが行われています。或いはその線引きがなければ生きていけないのではないかと思えるほどです。ボーヴォワールが『第二の性』で指摘したように、男と女の線引きも多分に社会的、後天的に与えられた可能性もあるというわけですから、根深いことであり、簡単に済ませてしまえることではありません。

それらの線引きが行われると、優越者と劣等者、強者と弱者、おいしいおもいができる人とそうでない人が生み出されます。ですから、フーコーはそれらの線引きは所詮はどこかのお偉いさんが考えたものなんだから、取っ払っちまえ、そんな線引きに縛られるな!とする、人の知の新しい地平を開いたのだと評価することもできるかも知れません。

フーコーは更にそのような線引きの内面化に警告を鳴らしています。即ち、自分で考えたのではなくて、どこかのエライ人、権威者や権力者が〇〇と〇〇の間には線があると決めただけのことについて、それが正しいことだと信じ込み、一般の人々は内面化していくというわけです。そのような事例をリスト化するとすれば、教会や国王、議会や法律、警察や銀行など、あらゆるところが何らかの線引きをし、それを構造化していますから、リストだけでも膨大なものになるに違いありません。

しかしながら、そのようなことを考えて生きること、ましてや実践することは大変に苦労です。自分で考え、自分で線を引く、或いは線を引かないことを選択する。時には摩擦も起きるし、果たしてどんな線引きが正しくて、どんなものが正しくないのかを一つ一つ自分で選別しなければいけませんから、とても日常生活を送っていくことはできません。また、全て正しい!ドン!もありなのですが、そのようにすると物事の差異が分かりませんから、私は一体誰なのか?というあたりまで突き詰めていくことになり、精神的に持つかどうか、私にはちょっと自信がありません。とはいえ、何かを決めつけてしまったり、或いは権威に盲目的に従ったりしないということは時に必要なことであり、見捨てられた人に手を差し伸べるという道徳を持つきっかけにできることもあるかも知れませんから、フーコーのような考え方もあるのだと知っておくことは価値のあることではないかと思えます。

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