レヴィストロース‐人には構造がある

ベルギー出身のレヴィストロースは南米のネイティブの村落に滞在し、彼らの生活や文化を理解することにより、それらの文化、習慣が西洋のそれと比較して何ら劣るものではないということに気づきました。たとえば神話や伝承においても、冒険に出かける勇者という構図は世界のどこにでも見つけることができる点で、人類は同様の構造を持っているという指摘もしました。なんとなく、ユングの集合無意識を連想させる発想法のようにも思えます。

更にレヴィストロースは人間はそれぞれの文化によって固有の構造を有しているという立場を採り、サルトルの人間は完全自由な存在であるという立場を強く批判したと言います。サルトルの自由主義は飽くまでもヨーロッパ人の文化的帰結なのであって、世界の人々に共通しているものではないとしたわけです。人は同じ構造を持っているとしながら、固有の構造を有しているとするのは相矛盾する気もしなくはないですが、偉い先生の考えることなので、おそらくは私の気づいた程度の矛盾を解決する程度の論理武装はされていたに違いありません。

同じ構造を持つのか、それとも固有の構造があるのか、どちらであったとしても、レヴィストロースが協調したことはヨーロッパの文化文明だけで判断することは不当であるということであり、一発大きなカウンターパートをかましたと言ってもいいような衝撃的な出来事と当時の人たちは受け取ったようです。

日本人の思考構造とヨーロッパ人の思考構造との間にはおそらくは大きな隔たりがあります。日本人が遠藤周作さんの主張していたような汎神論的な思考構造で世界を捉え、輪廻転生とかご先祖様がお盆になったら帰ってくるとか、神社にはそれぞれに神様がおわすなどといったことをぼんやりと曖昧ながらも多少は信じているところがあるのに対し、ヨーロッパではキリスト教というどちらかと言えば合理的とは思えない神の奇跡をその価値の中心に置きつつ、そこに論理的矛盾が起きないように1000年以上かけて精緻に理論化し、トマスアクィナスみたいな人が神の存在を論証するということに心血を注いできた文化とでは世界の見え方が違ってくるのが自然なことかも知れないと思えなくもありません。

私は個人的には中華圏については多少は詳しいのですが、中華圏の人々の感じ方と日本人の感じ方にも大きな隔たりがあり、ぱっと見似ているだけに、そのへだたりの大きさに驚愕することはよくあります。中華圏では家族主義が徹底している感があり、家族であれば守り抜く、家族でなければ知ったこっちゃないという感性は、日本人のような遠くの親戚より近くの他人的村社会的感性とは随分な違いがあるようにも思えます。

このような、日本人の曖昧な汎神論、中華圏の明確な家族主義、ヨーロッパの論理的追及主義のいずれかが勝っていたり或いは劣っていたりということはなく、それぞれに固有の構造で世界を認識しているのだということを寛容に認め合うという意味で、レヴィストロースは高いヒューマニズムを世に知らしめたと位置付けることもできるかも知れません。

レヴィストロースは2009年に亡くなり、亡くなった時は100歳だったということですから大変に長生きで、他の哲学者や思想家のような暗さをあまり感じさせない点でも異色と思えます。

レヴィストロースとサルトルとの間に交わされた論争を経て、フランスの思想界は構造主義を超えたポスト構造主義の時代へと移っていき、そもそもヨーロッパ人が現代に至るまでの思考の構造を持つようになったのはなぜか、構造の原点は何か、或いはそれらの構造なんか全部取っ払っちまえなどの様々な百家争鳴的議論のトポスが生まれていくことになります。

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