フロイト‐人は無意識によって支配されている

ヨーロッパでは伝統的に人間の理性を追及し、理性とは何かを明らかにしようとする試みが続けられました。ある程度は現代でもそうかも知れません。それに対するカウンターパートを唱えたのがフロイトであると言ってもいいかも知れません。アメリカではプラグマティズムがそのカウンターパートであり、ヨーロッパ内部ではオーストリア人のフロイトがそうであったというわけです。

フロイトは人は理性によって行動したり決断したりするのではなく、無意識によって自分ではどうすることもできないような衝動で行動したり決断したりするのだと考えました。無意識とは何かと説明するとすれば、エロス、タナトス、トラウマ、エディプスコンプレックスあたりに集約できるかも知れません。

エロスとは主として性に対する衝動であり、これには社会通念上の制限があるのが普通ですから、当然に抑圧され、無意識の世界、自分では気づかない心の奥底の領域に閉じ込めざるを得なくなります。

エロスは単に性的なことだけを指すのではなく、生きるということと密接に結びついています。生きるとは即ち創造的であり生産的な行為のことです。ですので、一生懸命仕事をしている人やがんばっている人、情熱的に生きている人はそれだけでエロスに満ちていると言うことができるかも知れません。

そのエロスの反対にあるのがタナトスです。一般に破壊衝動と訳されていると理解しています。フロイトは第一次世界大戦をその目で見ていますから、かくも残酷なことが起きるのは経済的合理性などでは説明できず、人の心の奥深いところに破壊衝動、タナトスへの欲求があるからだとフロイトは考えました。カミュの理由なき殺人もこういう視点から説明可能かも知れません。また、私たちがカミュの『異邦人』を読んで、読んだ人が全員そうではないにしても、ある程度理解できるなあと思えるのも、私たちの心の奥底にタナトスが共通して存在しているからだと考えることも可能なように思えます。

トラウマは精神的外傷と訳されるもので、幼少年期の心の傷が生涯ついてまわるとフロイトは考えました。なくて七癖と言いますが、心の傷を抑圧しているために人は時として合理性に欠く行動をとるのだというわけです。ドイツの伝統的な観念論や古代ギリシャ以来の理性に対して喧嘩を売っているとも言えますが、確かにトラウマという言葉を使うことによっていろいろ説明できることは確かなようにも思えます。

最後にエディプスコンプレックスですが、これが果たして各人に誰にでも存在するかどうかはあんまり分かりません。「父親」的存在に厳しくされることで、父親を克服したいという願望が生まれることは理解できますが、そこを母親という女性の取り合いの話になるのがすんなりと受け入れることができず、これはヨーロッパ社会に特有の何かなのではないかとも思えますが、そこは人それぞれの判断や感じ方によって異なるかも知れません。

フロイトが理性ではなく無意識という言葉で人間を説明したことの画期性は今も否定されてはいませんが、フロイトが無意識を否定的・悲観的に捉えていたのに対し、弟子のユングは無意識に対して創造性などの人間の可能性を見出し、アドラーはトラウマに捉われない人生の構築を唱えるようになり、フロイトと決別することになります。

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