フッサール‐立ち止まって考えよ

ヨーロッパの現代哲学の人物として外すことのできない人がフッサールです。フッサールは世界を「現象学的に還元する」ことを唱えましたが、現象学的に還元すると言われて何のことか分かる人は多分、いないと思います。いるとすれば恐るべき碩学か何にも考えていないかどちらかに違いないと思えますし、ドイツ人がドイツ語で読んでも何のことやらわけがわからんとなるらしいので、日本人の我々がおそらくは相当に直訳されているのであろう「還元」という言葉を用いられても何のことやらさっぱり…。となるのが普通のことであるように思えます。ドイツ人には英語の上手い人が多くて驚嘆しますが、現代のドイツ人でも英語の解説書を読んでようやく何のことか分かるということがよくあるようです。

現象学的に還元するとはどういうことかというと、ごくごく簡単に言えば、立ち止まって考えろ。ということに尽きるのではないかと思えます。人間は主観で物事を判断します。人間は主観から完全に自由になることはできません。しかしながら、主観だけを信じ、暴走するといかに大変な事態を引き起こすかということについて、ヨーロッパ人は宗教戦争とか世界大戦とか経験していますので、よく知っているわけです。そのため、取り合えず立ち止まれというわけです。たとえば人相の悪そうな人がいたとして、いかにも不逞の輩に見えるけれど、ちょっと待て、本当にこの人は悪い人なのか。実はいい人なんじゃないのかと立ち止まって考えてみる。自分の主観を見つめなおしてみる。〇〇な人は悪い人という風な思い込みは本当になかったかと考えてみる、自分の判断を疑ってみる。こういう感じのことのようです。

ただし、一つだけ疑問に残るのは、そんなことをしていると毎日の生活に支障をきたしてしまうということです。世の中の大抵のことは人間の主観で処理できることのように思えます。ごみを分別する際に、瓶は瓶として分別しますが、それがなぜ瓶だと言えるかと言えば、手で触った感じが瓶の感じであり、見た目も瓶であるからです。しかしそれは私が主観で瓶だと判断しているだけであり、本当に真実に真理としてはそれば瓶なのかと疑って立ち止まるようなことをしていれば、日常生活を送ることができません。そういう意味では還元するのもほどほどにと思えなくもありません。コモンセンスで判断していかなくては次々と起きる問題に対応できなくなってしまいます。

しかし一方で、主観で片づけることができないことは必ずあります。それはたとえば人間の権利や尊厳に関することであれば、ぱっと見の印象が良くないということで片づけてしまうことはできません。正義か不正義かを判断する時も立ち止まる必要があることもあると思えます。私が正義だと信じていることは、私が教育を受けたりいろいろ経験した結果正義だと信じているだけであって、本当は違うかも知れないという疑問を持つことは大切なことのように思えます。フッサールもナチスドイツの迫害を受けた人ですので、そういった背景も考えれば、尚のこと、自分が正義だと信じているものについて疑ってみる、立ち止まってみるということは有意義なことのようにも思えます。

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