ハイデガー-私は必ず死すべき存在である

ハイデガーは20世紀で最も著名な哲学者とも呼ぶべき人物かも知れません。しかし、ナチスの勃興期に於いて支持を表明したことが、戦後に於いて彼に追放されるという不運をもたらします。

それまでとは全く違う、新しい何かが登場した時、それはとても魅力的に見え、それ以前の伝統とか習俗とかそういったものは古臭い、陳腐なものに見えてしまいがちです。たとえばニーチェが神はんだと言ったことの背景には、19世紀の燃料機関の発達というとんでもなく画期的で、かつそれが人間の手によって生み出されたという驚きがあったからです。神の手によらず、人の手によって作られた燃料機関に魅了され、ニーチェは神よりも人に可能性を感じたのだと言ってもいいかも知れません。

ハイデガーがナチスに出会った時、ニーチェが機会文明と出会ったようなときめきを覚えたのでしょうか。それはあり得ないようなことではないかも知れません。エーリッヒ・フロムは『自由からの逃走』で、ナチス勃興期に於いて特に顕著に彼らを支持したのは若者たちであったと述べています。ナチスの制服やポーズや行進がいかした感じに見え、小さな商店を開いているような父親たちの姿が古臭い、陳腐で威厳のないものに見えたことが、ナチスに対して若者が熱狂した理由なのだとしています。ですから、ハイデガーもそういった陶酔に引っかかってしまったとしても、不思議なことではなかったのかも知れません。「ナチスのような集団を支持するなんて信じられない。ばかじゃね」という態度を取るよりも、「ナチス的なものは歓喜や興奮、熱狂や陶酔とともにくる。自分にそれを見定める力があるかどうかは常に自問されなければならない」という態度を保つことの方が賢明のように思えますが、時として賢明であることは熱狂することより遥かに難しくなるはずです。熱狂と陶酔は恋愛と同じで気持ちいいですから、人はそちらへ流れやすいものではないかという気がしてしまいます。

そうとして、ハイデガーは人は自分が死ぬということをよく自覚して生きるべきと説きました。これを「死の先駆的決意性」と呼ぶらしいのですが、要するに死を覚悟して今を生きろということに尽くされるのではないかと思えます。そういったことを日々の習慣とか、或いは日常生活、いわゆる終わりなき日常にかまけて死を忘れ、己の天命を忘れることなく生きよ。というような感じでしょうか。だとすれば、それはやはりニーチェに共通する部分があるように思えます。ニーチェは超人という概念は提示しましたが、超人と言っても人は人ですので、必ず死ぬという運命から逃れることはできません。その上で、「行きて汝のなすべきことをなせ」と要求することは、ハイデガー流に言えば「死の先駆的決意性」と言い換えることができるかも知れないですし、アドラー的な過去にとらわれず今を生きろということにも通じるのではないかという気もします。

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