サルトル‐私は何かは私が決める

サルトルは「人間は自由という刑に処されている」と述べました。なんとなく、エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』と対比関係にあるのではないかという気もしてきますが、要するに自由には責任が伴うため、自由に生きることには責任相応の苦痛も引き受けなくてはいけません。それができないのであれば、フロムが言ったように自由から逃走せざるを得ず、ホッブスのレヴァイアサンか風の谷のナウシカの巨神兵に全てを預けてしまい、主体性をなくしてうことになってしまいます。

サルトルはそれを赦されることではないと考えました。人間は生まれて来た時はまだ内面が確立されてはいないけれど、やがて成長するに従い、内面が確立し、自分が実際に存在すると感じることができる、実存を獲得します。

問題はここからであり、実存を獲得した人間には当然に選択の自由が与えられており、私がいつ誰と何をどのように行おうと、それは私の勝手というものなのですが、やる以上は責任を持たなくてはいけません。法律論的にそうだという議論も可能でしょうし、道徳的な観点からそうだということも可能でしょうし、あるいは特定の選択をした自分に対して責任があるというような言い方もできるはずです。

それをもう少し敷衍して考えるとすれば、私が何者であるかは私自身で決めると言ってもいいかも知れません。慈悲深い人間である私、或いは悪徳な私、清貧な私、または欲深い私、信心深い私、または無神論者の私、そういったものは全て自分で選んで決めることができますし、選んだ以上は責任が生まれるのです。それはもう「自由という刑」が執行されている状態であり、人としての尊厳を保つためにはこれは受け入れなければならない刑だというわけです。

このような考え方はやはりニーチェの超人を源とするのではないかと思えます。超人とは何かを考えた時に、それはサルトルの示したような自由という刑を受け入れるだけの覚悟を持つ人間のことであり、それはおそらくはアドラー的人間観とも共通するはずです。人は何にでもなれるとアドラーは言いましたが、サルトルはそれを実行せよと私たちに迫ります。責任を持つ主体として何かを選び取ることは、その行為自体が社会参加であり、それをアンガージュマンと言うそうですが、それは個々人が世界に対して責任を負うという厳しい考え方であり、猛々しく颯爽としていますが、果たしてサルトル本人がどこまでそれを実践できたかについてはやや微妙な気がしないわけでもないですねえ。

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