ショーペンハウアー‐諦めが肝心だ

ショーペンハウアーはこの世界は生きる意志、積極的に生きようとする意志で成り立っていると考えました。現代人の我々の感覚から言えば、「お、積極的でいいね!」と思いそうになりますが、彼の本心は違うところにあったようです。即ち、積極的な生への希望があることこそが苦しみの源であると考え、そのような希望、生きたいという意思を消し去ってしまうことで、幸福や平安を得られると考えたのです。古代ギリシャのエピクロス的快楽主義にも通じるもののようにも思えますし、小乗仏教的な発の想法とも通じるものがあるようにも思えてきます。

ショーペンハウアーは生きようとする意志は盲目的なものであって、且つ往々にして利己的なものであるため、ついでに言うと人権は他者との人権との間で権利の衝突が起きうるという内在的制約があるとも言ってもよく、そういったことはいわゆる欲望であって、欲望に際限がないのはもはや論証するまでもないほど明らかなことであるから、諦めてしまうのが一番。諦めこそがよりよき人生と彼は考えるようになったわけでした。

ベルリン大学で講師になりますが、当時ヘーゲルも同じ大学で講義しており、学生の人気は圧倒的にヘーゲルの方が高かったそうです。ショーペンハウアーは半年で大学を辞めて静かな隠棲生活に入りますが、自分の講座には人気がないということをあっさりすっぱりと受け入れることで、苦痛の少ない生活を選んだあkたり、彼の人生観がよく現れていると言ってもよいのかも知れません。

私も大学で講義する身ですので、そこから想像するに、若い学生の人たちは「かっこいい」知性に憧れを抱いています。ヘーゲルのように、テーゼとアンチテーゼ、アウフヘーベンとジンテーゼという用語を使って世界が一方向の極相へ向かって動いているという考え方はいかにもかっこよく、新しくてかつかっこいい、世界の真実に触れることができると学生たちが感じたとしても、無理はありません。一方で、ショーペンハウアーの講義内容が「人間の欲望にはきりがないのだから、諦めなさい。あなたが自分で情熱と思っていることも、欲望の一種にすぎませんから諦めなさい」というような内容であったとすれば、夢や希望が膨らむことを望む学生たちはがっくりしてしまったのではないかと思えます。私個人はショーペンハウアーの言うことには一理も二理もあるように思えますが、実践するのは至難のこととも言えます。まだ学生さんの立場であれば受け入れがたい、面白いと思えないと感じるのも充分に頷けることのようにも思えます。

市井で静かに隠棲するのも、また、哲学者らしくていいのではないかと思わなくもありません。

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