ロック‐人間に巨神兵は不要である

ホッブスは人間は自分を保存するために他者を滅ぼす自然な権利があると考えたため、結果としてレヴァイアサンを想定し、レヴァイアサンは『風の谷のナウシカ』の巨神兵と同じような超絶的に圧倒的な存在で、そのような強力な存在による支配によって人々が支配されてこそ治安や平和が維持されると考えたわけです。

しかし、ロックは人間をそのような「万人の万人に対する闘争」をするような愚かな存在であるとは考えませんでした。人間は理性的な存在であるため、そもそもが共存共栄ができる、自力で平和な状態を達成できる、それだけの叡智の存在だと考えたわけです。

しかしながら、やはり明確なルールというものは確立されなくてはいけません。しかしそのルールの確立には巨神兵みたいなものを必要とするわけではありません。市民が一定の手続きに基づいて意思決定をする、即ち民主主義的手法によってルールは確立できるとしたのです。また、飽くまでも市民の同意を得た上で、レヴァイアサンではなく国家が治安維持なりルールの確立なり、或いは確立されたルールの執行なりを委託されて同業務を行うのがあるべき姿と考え、国家と市民とは契約関係にあるとして社会契約論を唱えました。

民主主義と社会契約論がようやくここに登場してくるわけです。

ただし、国家が常に誠実に市民との約束に基づいて行政を執行するとは限りません。仮にそのような理想的ではない行政の執行が行われた場合、市民は例えば革命という手段によって国家を打倒することができるとし、それを抵抗権を呼びました。アメリカの独立戦争につながる思想の登場とも言えます。

いずれにせよ、市民が契約を結ぶ対象である国家が誠実な行政を執行することについては、革命とかに至る前にある程度は調整可能は機能が必要であり、それをロックは議会制民主主義に求め、更には三権分立も提唱します。ここでの三権分立には司法権は入っておらず、立法権、行政権、連合権(外交権)の3つがその分立に当たります。現代では外交権が独立していると立法との齟齬が生じる恐れが大きいですから、外交権は内閣にある(日本の場合であれば、立法府から選ばれた人物が行政府の長になるわけですから、ある程度、統合された意思決定と外交が可能になる)と考えるのが通常ではないかと思えます。

また、ロックは宗教的寛容も唱えます。長く宗教戦争が続いたヨーロッパで、宗派が違うという理由で殺し合っていたのでは平和と秩序は永遠に訪れることはないと彼は考えたのだと思いますが、その状態を打破するためには、他者の宗教に対しては寛容でなくてはならないと考えたわけです。また、政治が特定の宗派に肩入れしたり、逆に特定の宗派を排斥することがあると、結果としては宗教的寛容が失われてしまいますので、宗教分離も同様に必要であるともしました。

しかしながら、ロックや無神論とカトリックに対しては不寛容な立場を採ります。当時の社会的価値観から言って無神論を唱えたら袋叩きに会いますから、それはそれでやむを得ないようにも思えますが、ヨーロッパ諸国の君主の上に君臨して国家を超越した存在であるローマ教皇の存在は宗教分離に違反するとしたものの、ヨーロッパの宗教戦争はカトリックvs非カトリック(プロテスタント)によって続いたわけですから、カトリックに対して不寛容であるとすれば、宗教的寛容という発想そのものが骨抜きになるのではないかとも思えます。ただ、当時は英国国王とローマ法王が激しく対立する時代でしたので、結局はロックもその対立構造からは自由ではいられなかったということなのかも知れません。

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