ホッブスと巨神兵と自由からの逃走

イギリス人のホッブスは、人間には自然権があると考えました。自然権とは即ち自分の存在を保護する権利、ホッブス的な考えて言えば、自分の生存を保護するためなら何をやってもいいという権利とも言い換えることができるかも知れません。現在の我々の法体系でも、完全にホッブスと同じと言っていいかはともかく、人間には自分を守る権利がある、即ち自然権があるということを大きく認めていると言えると思います。一方で、個人が自然権を主張した場合、他者の自然権と対立することが決してないわけではありません。その場合、自己保存の権利を行使するという理由から殺し合いになるということは場合によってはあり得ます。そういう意味では自然権には本質的に限界があるとも言え、今日においてもよく「公共の福祉に反しない限り〇〇する権利がある」みたいに言われますので、自然権には限界が内在していると言ってもいいのかも知れません。

そのため、ホッブスは「人間にはやっていいことと悪いことがある」という前提を考え、議論する余地もないくらいにやってはいけないことについては法律に書いてるあるとかないとか関係なくにやってはいけないとし、それが自然法であるとしました。グロティウスの考え方に共通する部分もあるように思えます。

さて、そうは言っても人間には自然権があるわけですから、有名な「万人の万人に対する闘争」状態が起きる余地は残されており、「自然法なんか知るか!それより俺の自然権が優先じゃぁっ!」という人が絶対に出てくるでしょうから、そこを何とかするために、レヴァイアサンという架空の絶対的に優越した力を持つ存在を想定し、人間は国家の統治をレヴァイアサンみたいな恐ろしい存在に委任することによって、平和と安定が保たれると結論しました。

人間の自由の根本中の根本とも言える自然権を認める前提から出発しながら、最終的にはレヴァイアサンに委任するというのは本末転倒のようにも思えなくもないのですが、ホッブスは清教徒革命でフランスに亡命していますので、国王の主権なり強権なりを肯定するような結論にしたいという政治的な動機なり理由、または背景があったのかも知れません。

「人間には自然権があるけど、自然法を守れるほど賢明ではないので、強権に委任したい」というのは、なんとなくエーリッヒフロムの『事由からの逃走』を連想させます。フロムはこの著作でナチスドイツがワイマール憲法下で合法的に政権を獲得したのは何故か、何故人々はナチスドイツを支持したのかということについて考察しました。人には強権に委任したい、強権に委任することで自分個人の意思決定という責任から逃れて楽になりたという願望がもしかしたらあるのかも知れず、それはたとえば戦後にアメリカで行われたアイヒマン実験でもある程度は実証されたことだとも言えるかも知れません(アイヒマン実験には再現性に乏しいという理由で批判する人もいるそうなので、当該の実験が絶対に正しいと言い切ることもできないかも知れませんが)。

そのようなレヴァイアサンを連想させるものとしては、『風の谷のナウシカ』の巨神兵を忘れることはできません。漫画版のナウシカでは、絶対的な叡智とパワーを持つ裁定者である巨神兵が、人工物であるにもかかわらず神の如き存在として振る舞い、不正義に対しては鉄槌を加えます。巨神兵を創造したのが誰かは明示されてはいませんが、そうでもしなければ人は殺し合わざるを得ないと考える絶望的な人間観があり、それは著作者の宮崎駿さんの人間観なのかも知れません。

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