パスカル‐人間とは何か

パスカルと言えば、『パンセ』という著作で「人間は考える葦である」と述べた人物としてよく知られています。しかし、「考える葦」とはそもそもどういう意味なのでしょうか?

パスカルによると、人間は大変に弱い生物であるということになります。ひ弱で繊細です。すぐに病気になるし、大抵の人は数十年で亡くなってしまいます。当時であれば天然痘などによる幼少期の死亡率もそれなりに高かったのではないかと思いますので「人間ってあっけないなあ」とパスカルが思っていたかも知れません。そのような弱い存在だとする意味で、人間は「葦」という植物と同じぐらいに弱いのだとして、「人間は葦である」としたわけですが、では、なぜ「考える葦」なのでしょうか。人と葦との決定的な違いは人間はいろいろなことが考えることができるし、神の実在を論証しようとしたり、宇宙の広がりについて議論しようとしたりできるという知性や理性を持っているという点です。葦にはそれはできません。もちろん、スピリチュアルな視点から、葦にも心があって叡智が備わっていると考える人もいるかも知れないのですが、とりあえず見た感じでは葦が何かを考えていると理解することは難しいことのように思えます。

またパスカルは人間を中間者だと表現したこともあります。無限の宇宙に比べれば人は小さい存在ですが、ミクロの世界から見れば巨大な存在であるため、中間的な存在だから中間者なのだそうです。

以上のようにパスカルは人間は偉大な内面を持っているけれども不完全な存在であるため、イエスキリストを信仰することによって魂の救済を得るほかはないと考えました。人間は不安や恐怖、臆病さや惰弱さ、罪悪感や膨らんだ欲求で頭の中がパニックになってしまうかも知れないような悲惨な存在で、もし信仰がなければ、その心の中の苦しさから逃げ出すために気晴らしをするしかないのですが、気晴らしに逃避してしまうこと自体が悲惨であるため、イエスキリストに頼るのだということのようです。「神」への信仰ではなく、「イエスキリスト」と表現しているところにいろいろな含みがあるように思えて、それは興味深いことのように思えるのですが、「自分は悲惨だという自覚がない状態で神を知れば、高慢であり、神を知らなければ悲惨な存在である人間は絶望するしかない」だから「イエスキリストへの信仰」によって救いを求めるしかないのだと言ったらしいのですが、はやり微妙な使い分けがあるように思え、それがどのような使い分けなのかということについてはラテン語の知識がなければ多分解明できないかも知れないのですが、信仰を人を救うという考え方は仏教でもどこでも広く存在する考え方ですし、実際に信仰によって救われている人も多いと思いますから、あまり細かいことは気にせずにそれでいいのではないかと思います。

パスカルはデカルトを批判したことでもよく知られています。パスカルは人間は不完全な存在であると理解していたため、デカルトが理性によって宇宙の真理に辿り着けると考えていたことが許せなかったということらしいのですが、私の理解が正しければ、デカルトも人間は不完全な存在だと考えていたはずですので、おそらくパスカルは重箱の隅をつつくようにデカルトを批判していたのではないかという気がしなくもありません。

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