ライプニッツとデカルトとヒューム

ライプニッツは生きとし生けるものの知覚と精神は多元的なものであると考え、個々の知覚と精神をモナドと呼びました。モナドは個体の数だけ存在するため、事実上無限に存在すると言ってもよく、当然に多元的なものであると考えることができます。また、「モナドには窓がない」として、個体の知覚と精神、即ち主観はそれだけで完結したものであり、外部とのリンクはなく、我々は他人の内面を自分の経験から推察することはできても、それを実態として確認することは不可能であるともしましたが、それは現代人の感覚から言っても、まあ、確かにそうだと同意できることのように思えます。

デカルトは人間には主観のみが確実に存在すると言えるとしましたが、これはライプニッツのモナドと共通する点があるように思え、デカルトの考えを引き継いだもののように思えます。一方で、ヒュームは主観すらも存在しない、主観が存在するかのように人間は勘違いしているだけだという立場を採りましたので、その点に於いてはヒュームとの差異を見つけ出すことができるようにも思います。

さて、ライプニッツは17世紀のドイツ人ですが、当時のヨーロッパ人はとにかく神について論証しなくては有無をいわさずえらいめに遭わされてしまいます。従って、ライプニッツも当然に、モナド的多元論から神は実在すると論証する必要がありました。ライプニッツは個々のモナドは多元的個別に存在するにも関わらず、人間が考えることにそんなに違いはないことから、そのような共通性を持たせることができたのは神の為せる業であるとして、それをして神の実在は論証できると結論しました。ライプニッツはよくがんばったと思います。また、そのように結論すること自体には論理的整合性という点で問題がないようにも思えますので、実にライプニッツはよくがんばったと言えるのではないかとも思えます。

ライプニッツの確率論は現代の量子論にも通じる考え方ではないかとも思えますし、ゲーム理論とも関係があるように思います。そのようなことを考えると、ヨーロッパにはいろんな哲学者がいましたが、彼の場合は特に高く評価されるべしというか、偉大な人物であったと思って差し支えないのではないかと思います。

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