立花隆さんが臨死体験に関する調査や研究を長く続けられ、著作で発表されたり、NHKで関連する番組が制作されたりしたことは、わざわざ私がここで述べなくても、よく知られていることと思います。
臨死体験がどのようなものなのかを考える際、立場は大きく二つに分かれます。一つはそれは単なる脳内作用に過ぎず、いわばある種の夢のようなもので、死後の世界を証明したり、魂の存在を証明したりするに足りる事象ではないとする立場です。一方で、それは確かに「臨死体験」は死後の世界の入り口まで行った体験であり、死後の世界は当然に存在するし、魂もまた実際に存在するものであるという立場の人もいます。どちらの立場もそれなりに説得力があるように私には思え、果たしてどちらが正しいのかは死んでみないと分かりませんので、急いで死ぬ必要もありませんし、いずれ死ぬことは確かですから、そういったことはうんと将来のお楽しみにとっておけばいいのかも知れません。個人的には死後の世界はあると思いたいといったところですが、それも死んでみなければ確かなことは分かりません。
臨死体験について詳しく理解するために、立花さんは脳の作用につてもいろいろな考察をしました。サル学について取材したことも脳についてより深い理解を得るための一環であったと理解しています。
脳については様々なことが分かっていることは確からしく、私は理系のことは門外漢ですが、脳が非常に精緻に設計されているということは素人向けの本を読んだりして、なんとなくは理解でき、かくも精緻なものが設計されている以上、神は確かに存在するのではないかと思えることもしばしあります。
立花さんはその著作で、脳の記憶したり知覚したりすることのメカニズムはよく解明されているものの、精神の発露というものが分からないというようなことを述べていました。もう少し平たい言い方をすれば、心はどこから来るのか、なぜ心があるのかが解明できないと言ってもいいかも知れません。精神がなければ知覚や記憶は単なるデータに過ぎません、脳はデータ処理においては素晴らしい機能を持つということは分かったとしても、それだけでは心を説明することはできず、ましてや瞑想のような行為によって叡智に得ようとするのはデータを仕入れるのとは逆のベクトルの行為であるため、説明できません。
かつて、イギリス経験論の系譜に入るヒュームは、精神とは知覚の束に過ぎないと考えました。従って、精神は存在しないと結論づけました。デカルトが我思うゆえに我ありとして主観の存在を肯定=精神の存在を肯定したのに対し、ヒュームはそれに対してすら、懐疑的でなければならないと考えとも言えると思います。
バークリーという人物は、存在とは知覚されることであるとの立場を採り、知覚されないものは存在しないと考えましたが、これもまた、精神の実在を否定する立場とも言えます。精神が実在するのであれば、誰かにそれを知覚されなけなくとも存在するはずであるため、全てが知覚されることによって存在するとの前提に立てば、精神は実在しないとの結論に達することも可能です。ヨーロッパの哲学ですから、精神の実在は神の存在とも直結する議論であるため、ある程度無神論的な要素を持つというか、ヨーロッパでの議論は最終的には神は存在するか、存在するとすればどのような性質で存在するか、それらの議論に合理的整合性がとれなければ、即ち神は存在しないのではないかというあたりのせめぎ合いですから、我々日本人の感覚とは直結し難いところもありますが、そうであっても、心の実在というところまで落とし込めば、日本人にとっても全く無縁な議論とも言い切れず、関心を持ってしまうところではあります。
ヒュームやバークリーの議論は、人間は記憶の連続性によって自分が個性を持つと認識しているものの、それすらも実は怪しい、昨日の自分と今日も自分は別の存在であるかも知れず、そうとすれば、私が存在するかどうかも実は怪しいというところまで行ってしまうわけですが、この場合、心は存在しないということになり、私は自分が心を持つ存在だと思いますので、完全に受け入れるのはちょっと難しいようにも思えます。ただ、彼らの議論を受け入れるかどうかは、それぞれの人に任される問題であるとも思えますので、ここで完全に結論してしまうことは控えたいと思います。