ロック‐人間はディープラーニングする存在だ

デカルトは「我思うゆえに我あり」として、自分の主観だけは絶対的にその存在を疑うことができないと考え、それは人間は生まれながらにして主観を持っていると考えましたが、イギリス人のロックはその主観さえも絶対的かつ生得的なものとは言えないとの考えに至りました。

ロックによると、人間は生まれた時に全く白紙の状態であり、その状態を「タブラ・ラサ」と呼びました。多分、ラテン語ではないかと思います。タブラ・ラサと言ったらなんか重々しいものみたいに思えてきますが、要するに白紙状態ということのようです。フランス語でエクリチュールと言ったらなんか凄い難しい概念みたいに思えてきますが、英語で言ったらただのライティングというのと同じ感じかも知れません。

さて、それはともかく、完全に白紙の状態ということは、心も存在しないということではないかと思えます。私はど素人ですが、脳科学によると人は生まれて来た後に他者や環境の存在を認識することで自己を認識するように神経細胞が発達していくのだそうです。これが本当だとすれば脳科学的な見解(多分、脳科学者の世界の一派の人たちの考え)と、ロックのタブラ・ラサ的人間観には共通するものであると考えることができるかも知れません。

更に言うと、ロックはイギリス経験論的な立場から人間は様々な経験を繰り返し経ることにより、まずは単純な実感、甘いとか寒いとか熱いとか冷たいとかの実感を経て、複合的な考え、これぐらい寒いと暖房だなとか、これぐらい甘いと糖尿病になるかも知れないななどの推論を導き出すことができるようになると考えましたが、私はロックの人間観は今はやりのAIのディープラーニングと全く同じことなのではないかという気がします。

AIもまた、様々なデータをディープラーニングし、それら膨大なデータを基にシミュレーションをし、こうすれがゲームに勝てるとか、経済はこれから良くなるとか悪くなるとか、株は上がるとか下がるとかなどの未来に対する推論を立てることができるようになるとされています。

以上のような人とAIの共通点に気づくと、やがてAIは人間そっくりに、感情や自我を持つようにもなっていくのかも知れません。

しかしながら、人には心があり、心には、たとえばチョコレートという言葉を聴いたらぱっとキットカットみたいなものを思い浮かべるとか、北海道と聴いたら北の国からの場面を思い出すとかという作用があります。果たしてAIにそういう作用をさせることができるかどうかが乗り越えなければならない壁であるというようなことを、私はえらい先生の音声で聴いたことがあります。その辺りは科学技術の進歩と発展を見守るしかないかも知れません。

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