デカルトは「方法的懐疑」という手法を通じて真理に迫ろうと考えました。即ち、いかなるものに対して疑いの目を向けてみる、例えば「東京湾は東京都に隣接している」という命題があった際、本当に東京湾と東京都は隣接しているのか、地図を見れば隣接しているように見えるが、地図が間違っているかも知れないし、自分の目が間違っているかも知れない、経験的に正しいと思っていることも、五感の経験が錯覚や夢のようなものではないという保証はないと考えたわけです。そして、それを突き詰めた結果、それについて考えている自分の主観が存在するということだけは疑いようのない事実であるとの結論に達し、有名な「我思う、故に我あり」に辿り着きます。
認識していることがどれだけ正しいのかわからない不完全な私が存在することを前提に、不完全が存在する以上、論理的に考えて完全が存在する余地は残されており、その思索の結果として完全な神は存在すると結論します。パスカルは人間が理性で考えて神が存在すると結論すること事態が傲慢不遜であると批判したと言いますが、神の存在証明を論理的帰結に求めるか、神秘的経験に求めるか、聖書的奇跡に求めるかは当時のヨーロッパ人にとっては重要な問題だったのかも知れません。現代人であれば、神は主観の問題であるということで結論に代えることも可能ではないかとも思えます。私は個人的に、それを神と呼ぶかどうかは別として、いわゆるサムシングレートみたいな存在はあるのではないかなあと思ってはいますが、これも主観に過ぎません。
さて、デカルトの立場であれば、神を経験的に感知することはできませんから、理性を用いて演繹的にその存在を証明しかないということになり、いわゆる大陸的合理主義としてイギリス経験論との対比関係と位置付けられています。
この演繹的思考法を用いれば、神であろうと宇宙人であろうと地底人であろうと演繹的のその存在、不存在を論証することが可能になります。詭弁に陥りやすいため、注意は必要ですが、詭弁はいつの時代にも存在すると考えれば、デカルトに限らず、いかなる学問にも共通して注意しなければならないとも言えそうにも思います。
デカルトはこの演繹的思考により、精神は肉体とは別個の存在であるとの立場に立ち(主観を持ち考えている私は肉体の存在不存在とは直接関係しない)、精神と肉体の二元論に至ります。考えに考え抜いたわりには普通の結論のように思えなくもありません。真理は常識の中に存在しているのかも知れません。
心の動きに於いても理性と感情の二元論で説明することが可能であり、デカルトは理性によって感情を抑制することをその道徳律としました。フロイトが人間の心を意識と無意識に分けたのは、デカルトの理性と感情の二元論に対するカウンターパートであると考えていたのかも知れません。理性と感情がはっきりしていれば、理性によって感情を支配することは論理的に可能ですが、人は必ずへんな癖があったり、わかっちゃいるけどやめられないことがあったり、うまく説明できないけどどうしてもやりたいことがあったりする、非論理的な側面を持っており、しばしば理性によってコントロールすることに限界が生じます。そのため、デカルトの思考法だけでは日常生活に応用することに限界があるため、フロイトとしては意識と無意識という分け方を用いることによって、人間の心をより実際に近い形で説明できると考えたのではないかとも私には思えます。
よくポストモダンで脱二項対立という言い方がされましたが、まずはデカルトの二元論を知らないと、ポストモダンの意味するところもはっきりせず、理解に苦しむことになると思います。尤も、二元論だの二項対立だの脱二項対立だのというのはヨーロッパ人の教養から生まれて来た発想法であるため、日本人がそのことで悩む必要はないかも知れません。日本の場合、例えば能の世界観であったり、或いは盂蘭盆の習慣であったりというように、そもそも死者と生者の境界が曖昧で、その曖昧さを楽しむという独特のスタイルがありますので、それはそれで大切にすればいいのではないかとも思えます。