江戸時代、朱子学が江戸幕府の統治理論として用いられました。徳川家康が藤和惺窩を朱子学のアドバイザーとして招聘しようとしましたが、惺窩は自分の弟子の林羅山を推薦しています。林羅山は方広寺事件で豊臣秀頼が奉納した釣鐘に「国家安康 君臣豊楽」の文字を発見した人で、徳川家康にとっては使い勝手のいい学者さんだった、即ち御用学者だったと言っていいのかも知れません。その後、林家は代々林大学頭として徳川家に仕えることになります。
著名な朱子学者としては他に、新井白石を見逃すことができません。イタリア人宣教師のシドッチを尋問して『西洋紀聞』を書いた他、徳川家宣の側用人として、現実政治にもいろいろと関わりがあったようです。半分は学者で、半分は政策家だったのかも知れません。
ちょっと異色を放つのが雨森芳洲ではないかと思います。近江出身で、木下順庵に弟子入りし、その後、対馬藩に出仕しますが、対馬藩の碌を受けながら、長崎で中国語の勉強をしたり、朝鮮半島に渡って韓国語の勉強をしたりとなかなかの国際派です。朝鮮通信使が江戸へ向かう際に何度か同行したこともあるようですが、隠居後は対馬で過ごし、対馬を終の棲家にしたようです。
あともう一人、朱子学学んだ著名人として、貝原益軒を挙げてもいいかも知れません。彼は幼少期に体が弱かったらしく、その経験からか本草学の方に関心が強く、飽くまでもそっちの方がメインで、朱子学はいろいろ勉強するうちのついでみたいな感じだったかも知れません。貝原益軒といえば『女大学』で、家庭内の女性の在り方みたいなことをいろいろと書いてあり、福沢諭吉が後にそのアンチテーゼみたいな感じで『新女大学』を書いて、新しい女性の活発な生き方を提唱するところまでつながっていきます。
ただ、実際には貝原益軒が『女大学』を書いたわけではないらしいので、そういう意味では歴史の登場人物としてはちょっと損な役回りを負わされているといえるかも知れません。
朱子学の大家木下順庵の弟子には室鳩巣というもいて、この人は後に赤穂浪士事件が起きた際、浪士たちの処遇を巡り、荻生徂徠と論争することになります。室鳩巣は朱子学の原理から考えて、「主君の仇討ち」は美徳であるため、浪士たちを擁護しますが、荻生徂徠が治安維持の観点から無罪放免というわけにはいかないと主張し、荻生徂徠の意見が通って46人が切腹するということで落着します。後に落語で、荻生徂徠が他人に豆腐をごちそうしてやったら「赤穂義士の腹を切らせた荻生徂徠先生が自腹を切った」というオチに使われることになります。