エピクロス派は「快楽主義」という思想を持っていたことで知られています。しかし、その「快楽」とは、いわゆるお酒や愛欲などのような世俗的な欲望を満たして満足を得るというようなものとは対極にあるものと言えます。
即ち、世の中の喧噪から離れ、静かに過ごし、安定した精神を得て内面的・精神的な幸福感を得るというものだったようです。そのため、エピクロスとその支持者たちは外の世界から隔絶された場所にひきこもり、自給自足の静かな生活を送るという選択をしました。なんとなく、中世ヨーロッパの、たとえば『薔薇の名前』に出てくる修道院の人々や、東南アジアの小乗仏教に取り組む人々に似ていないわけでもないように思えます。
世俗的な一切の煩わしさから自由になり、静かに生き、欲望はほどほどに、できれば欲望からも自由になるといった感じだったのではないかと想像するのですが、どんなにそのように静かで煩わしさのない生活を追及したとしても、人は死ぬことからは自由にはなれません。いずれ必ず死ぬという「悩み」がつきまといます。そしてまた、それは多くの宗教や思想がそうであったのと同じように、克服しなければならない壁だったのかも知れません。
エピクロス派では、デモクリトスの原子論を用い、人は死んでもその存在が原子レベルに分解されて分散されるだけなので、自分が消滅することを心配しなくていいと説明したといいます。大岡昇平さんの『野火』では、主人公の兵士がフィリピンの森林で飢えと病気で死にそうになった時に、自分が死んでも肉体は物質レベルに分解されて永遠に存在し続けるのだという論法で自分を慰めようとしたことに似ているようにも思えます。エピクロス派の思想は唯物論的であるとの指摘もあるようですが、確かにそういう視点から議論することも可能かも知れません。
私は他に、死んだら何も感じなくなるのだから、何も感じない以上、恐怖も感じないため、心配する必要はないのだと説いたという説明も読んだことがあります。立花隆さんが『臨死体験』のあとがきだったと思いますが「死んだ後のことは死んでから心配すればいい」ということを書いていて、納得したことがありますが、エピクロス派の発想と実は似ているのかも知れないとも思えます。
受験勉強の時にエピクロス派という名称が登場し「快楽主義」という説明が書かれてあったのを読んだときは、「刹那的な楽しさだけが全て」の人たちのことなのだろうかと私は思ったのですが、少し詳しく調べてみるとそういうことではなく、むしろそのような刹那的な感情に振り回されず、或いは自分の人生そのものが刹那にすぎないのだから、じたばたせずに静かな幸福だけを望んだという人々だったのかも知れません。