プラトンのイデア論と東洋思想

プラトンは人間が実際に生きているこの世界とは違う、別のどこかに「イデア」という完全で完璧な真実の存在があると考えました。この世に生きる私たちが、五感に触れるものは、そのイデアなる真実の世界が投射された影に過ぎない、いわば影絵のようなものに過ぎず、ただ、私たち人間はこの世に生まれ出る前にイデアの世界に存在していたため、影を見てイデアを思い出すのだとしたそうです。

これを聞いてぱっと思い浮かぶのは般若心経の「色即是空」にとてもよく似ているということです。プラトンがこの世界は影に過ぎないとしたのに対し、般若心経ではこの世界は夢に過ぎないとした点では酷似しているとすら思えます。一方で、プラトンはイデアなる完全な世界があると考えたのに対して、般若心経では、そんなものすらない、全ては「無」に帰するとしている点で違いがあるかも知れません。

しかし、般若心経の無とプラトンのイデアは定義や捉え方の違いに過ぎず、実は同じことを言っているという可能性もあるかも知れません。

興味深いのはプラトンが人間が生まれてくる前はイデアに存在していたと考えた点です。まさしく、あの世とこの世、 彼岸と河岸です。もし、命が尽きれば再びイデアに帰って行くのだとすれば、インド哲学のアートマンとブラフマンの関係性に似ているようにも思え、ところ変われば品変わるといえども、その真実に迫ろうとする観察と思考を突き詰めて行けば、わりと同じあたりにだんだんと見当がついてくるものなのかも知れません。

東洋では一般に輪廻転生が信じられたのに対し、西洋では輪廻転生は否定される場合が多いように思います。そうは言っても、西洋でも輪廻転生の可能性について密かに論じられてきた様子もなくもなく「来世で会おう」という台詞がアメリカ映画で登場することも全くないわけではありません。

一方で、輪廻転生が大前提くらいに一般に思われている仏教ですが、釈迦は人が死んだ後どうなるかについては「分からない」という立場を崩さなかったと言います。輪廻転生があると明言したわけではないらしいです。

以上のようなことを思うと、西洋と東洋の思想はある意味では相似、場合によっては逆転ということもあり得るという点でなかなか興味深いことのように思えてきます。

人が死んだらどうなるか、自分が死んだらどうなるかというのは人が誰しも考えるテーマに違いありません。肉体的なもの、物質的なものとは離れた精神の存在を信じる思想はたくさんありますので、立花隆さんの本を読んだ影響もあるのかも知れませんが、もし自分が死んだも自分の魂とか精神みたいなものは存在し続けるのではないか、それがどういう形かは分からないけれど、それはそれで変な言い方ですが、後の楽しみにとっておき、今、生きている自分をしっかりと生き、立花隆さんが書いていた通り、死んだ後のことは死んでから心配すればいいのではないかと思います。

死生学では、村上春樹さんの『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』が、唯物論的に永遠の生を説明しようとしているという点で興味深い一冊になるのではないかとも思います。

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