アリストテレスと「中庸」と「徳」

プラトンの弟子として、彼のアカデメイアで学んだアリストテレスは、自然観察から政治学まで広い分野で非常に優れていたらしく、秀才すぎてプラトンも手を焼いたとも言われています。プラトンのイデア論に対して、アリストテレスは「そんなものはない」という立場に立ち、実証的観察から得られる、現実世界のことを理解し、考えることを目指します。プラトンも手を焼くことでしょう。

さて、、そのアリストテレスは人間の在り方につい「中庸」と「徳」を重視するべきだと考えました。「中庸」とは要するにほどほどに、極端に走らないという意味だと考えていいと思いますが、釈迦も孔子も中庸を説いていますので、プラトンのイデア論が般若心経に似ているのと同様に、アリストテレスと東洋思想にも共通点があるのではないかという気もしてきます。

特に人間関係について、アリストテレスは人は人との関わり合いの中でしか生きていけないと考え、徳を持つ人間同士が互いに尊敬し、友愛の情を持ち、協力し合うという理想は、もうほとんど孔子と同じ、書き表された言語が違うだけとすら言えるのではないかとも思えてきます。

また、その人間関係に関する考え方を発展させて「国家」を論じており、彼の結論は共和制が最もよいということに至ったらしいのですが、徳のある、互いに尊敬できる人間たちが善良な意思を基礎にして集まり、意思決定をするというのは、確かに民主主義の一番の理想と言ってもいいのではないかとも思えます。

そうはいっても、ギリシャのような小規模な都市国家で、自由市民の数も限られ、誰が誰かを大体知っているという時には上のような民主主義は良く機能するような気もしますが、現代のように国民の人数が一億人とかが普通にあるような時代では、もしかすると難しいのかも知れません。

ある人の計算では直接民主制が理想的に機能するのは有権者6000人程度の場合だというのを読んだことがありますが、古代ギリシャのポリスであったり、或いは、現代風に言えば小規模な自治体には可能なものの、国民国家の時代に入れば、間接民主制の方が少なくとも意思決定しやすいという結論が、アリストテレスの考えに従って論考を進めるうちに自ずと導き出されてくるとも言えるかも知れません(小さく国をッ分割すればいいのだ。という議論ももちろんアリですが、それはかえってアリストテレスの「中庸」の考えから見れば、現実から見て極端に走っているという反論も可能かも知れないですが…)。



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