ソクラテスとイエスキリスト

ソクラテスはギリシャ哲学の大スターとも言え、その名は大変知られています。また、タレスやピタゴラスのような「万物の根源は〇〇だ」みたいなややこしいことでもないので、どういう人かということもだいたいよく知られているのではないかと思います。

ソクラテスは真善美の発想法で、善く生きることを実践することを欲し、善く生きるためには善なる魂を持つこと、善なる魂を持てば自ずと善なる行動が伴うと考えたといいます。

そのソクラテスは、デルフォイの神託で「この世で一番賢いのはソクラテスだ」と聴かされ、それを検証するためにいろいろな人に議論をふっかけては論破するという、果たしてそれが善なのかと疑いたくなるようなことをやり続け、人々に嫌われて最期は死刑の判決を下され、それを受け入れて毒杯をあおり、その人生を閉じたと言われています。「悪法も法なり」という言葉はよく知られており、悪法は果たして守るべきなのかという意味では「法の支配」と「法治主義」の違いの議論にもつながりそうな気もしますが、個人的にはデルフォイ神殿の「汝自身を知れ」という言葉にソクラテスが啓発されて「無知の知」に至ったということの方が、なんとなくじわっと響いてくる感じがします。おそらくその理由は「汝自身を知れ」という言葉がやたらとかっこいい感じがするという私のごく個人的な好みの問題になると思います。

それはさておき、国外逃亡の可能性もあったのにそれを選ばずに法に従うとして「殉難」の死を選んだソクラテスですが、本人の著作というものはなく、プラトンがソクラテスについて書き残した『ソクラテスの弁明』などによって我々はソクラテスの発言や考え方を知ることができます。

このソクラテスの生涯とその伝承のされ方が、イエスキリストとそっくりだということに気づきます。イエスキリストはソクラテスとは違ったやり方で、善なる魂と善なる行動を追及し、実践し、言いがかりによって磔刑に処されます。イエス本人の著作はもちろんなく、弟子たちによる四福音書によって彼の言動が伝えられているというのも、プラトンが『ソクラテスの弁明』によってソクラテスの存在を伝承としたということと大変相似しているようにも思えてきます。

キリスト教はその当初の歴史においてはローマ帝国からの迫害を受けますが、後にローマ帝国の国教とされるほどに浸透していきます。よく知られていると思いますが、二ケア公会議などにおいてキリスト教の聖典や教義が整理されていきますので、ある程度、キリスト教がローマ的なものへと変貌したのではないかと想像できます。当時のローマ人にとって最高の知識と知恵はギリシャ語とギリシャ哲学だったと言います。そのため、美しくかつ聖なる存在であったイエスキリストの人物像を整理するにあたっては、古代ギリシャ的な符号を重視し、場合によっては採り入れたのではないかとも私には想像でき、あるいはソクラテスをある程度モデルにしてイエスキリストの生涯と人物像を整理したのではないかという気がします。そんな気がするだけで、それを理由にキリスト教を批判するつもりはありません。私もキリスト教の洗礼を受けていますので、キリスト教のいい面については自分なりに理解につとめているつもりです。ただ、飽くまでも知的探求心の範疇として以上のようなことを考えてみただけです。

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