『東京裁判を読む』を読む

東京裁判については、今も様々に議論が分かれるものと思います。よく問題にされるのは、東京裁判で問われた「平和に対する罪」が事後法であること、英米法で定める共同謀議が被告人たちの間で成立したかどうかは議論が分かれるところ、「裁判」とうたっているものの、判事と検事が全て戦勝国の人物によって構成されているため、公平性に著しく欠け、勝利者による裁きや復讐になってしまっていること、あたりが多くの場合の論点になるのではないかと思います。

もちろん、私も以上のようなことは問題だとは思いますが、『東京裁判を読む』を読んだ感じでは、以上のような問題があることはあるけれど、それでも裁判としてのフェアさは確保されなくてはならないという意識も働いていたということが分かります。

たとえば「平和に対する罪」ですが、平和に対する罪だけで死刑にされた人はいなかったようです。キーナン検事も事後法であることは認めており、事後法で死刑者まで出してしまうことにはためらいがあったように見受けられます。また、共同謀議に関してですが、共同謀議は関係者が全員一同に会して犯罪を謀議し、同意しなければ成立しないという類のものではないらしく、間接的につながっていればオーケーな場合もあるということなので、必ずしも共同謀議の成立の余地が全くないとも言い切れないという感じのようです。そうは言っても個人的には果たして本当に重光葵や大川周明(途中から外れましたが…)や東郷重徳や東条英機広田弘毅を共同謀議で括れるかかという疑問はやはり残ります。残りはしますが、「法廷で初めて顔を合わせる被告同士で共同謀議が成立するわけがない」という反論はちょっとあまり効果的ではないかも知れません。

A級戦犯という括りに入れられた人たちの中で、残虐な行為に責任があると認められた人は死刑の宣告を受け、そうではない場合にはもう終身刑か有期刑という感じになったようなのですが、疑問は確かに残ります。というのも、A級戦犯の人たちは戦争中に国家の指導者の立場ですから、残虐行為に直接加担するようなことはもちろんなく、仮にそうだとすれば、命令または指揮したとする明白な事実の証明がなされなくてはいけないようにも思えるのですが、たとえば南京事件のようなことについては、広田弘毅や松井石根は残虐行為を止めようとしなかった不作為によって死刑が宣告されています。重大なことについての不作為は確かに見逃すことのできないことではないかとも思えますが、死刑はやり過ぎなのではないか…と思えてなりません。

南京事件が起きたか起きなかったかという議論もよくありますが、松井石根さんが教誨師の花山信勝に対して大筋で認める発言を遺していますので、規模や内容に於いては議論の余地はあるものの、あったかなかったかという議論をするならば、残念ながら「あった」と結論できるのではないかと思います。

東京裁判は勝利者による著しく公平性に欠ける裁判ではあったと思いますが、戦争の全貌が、一般の国民に知られていないこともたくさん明らかにされた面も確かにあるように思えますので、全く意味のない無価値なものかと言えば、そうも言い切れない部分もあるのではないかなあという気がします。もっとも、刑死された方のことを考えれば「しょうがない」で割り切ってしまう心境にもなかなかなれない部分も残ります。

難しいところではありますけれど、東京裁判はその一方で、昭和天皇を訴追しないという点で日米合作の性格も有しており、それについてはウェッブ裁判長が一番気に入らなかった面だったようなのですが、また、一部の戦犯に全責任を負ってもらうことで、国民は免罪されたという部分もあり、そういった部分は大変に政治的な面だと言ってもいいと思いますが、そういうこともひっくるめて正義か不正義か、オールオアナッシングのような議論ではない議論が必要かも知れません。

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