『昭和天皇独白録』を読む

昭和天皇は昭和史の主役と言えます。また個人的には国民的スーパースターだったと言っていいのではないかとも思えます。その側近が数回に渡り、昭和天皇にインタビューし、それを書き起こしてまとめたものが、この『昭和天皇独白録』です。

御用掛だった寺崎英也が「文責」を担ったもので、同書に一緒に収録されている、寺崎氏のお嬢さんの手記によれば、ずっと長い間、家で保管(あるいは放置)していたのだが、お嬢さんがアメリカで育ったために日本語で書かれた寺崎氏の原稿を読解することができず、日本の学者に依頼して解読と分析を頼んだところ「稀有な史料」との返答を受け取り、これを世に出すことが自分の責任であると考えるようになって、ようやく出版されたという経緯があるそうです。

この寺崎英也という人は、もともとは外務省の人で、宮内省に出向していた時期に御用掛を務めて、この聞き書きを行ったわけですが、太平洋戦争との関連では実に不思議な役回りを負った人と言えます。1941年12月7日に日本はアメリカに対して交渉の打ち切りを通告する(宣戦布告)わけですが、その通告が予定よりも遅れてしまい、ハル国務長官に手交された時には既に真珠湾攻撃が始まっていたことは、よく知られています。その要因として当時のワシントン駐在の大使館員たちが前日に歓送会を開いており、翌日は日曜日でみんな休日モードに入っていたため、要するにだらっとしてしまったために日本から暗号電文で送られてきた交渉打ち切りの通告の文章をタイプに打ち出して正式な文書にするという作業が遅れてしまい、結果としては「真珠湾は宣戦布告前に行った騙し討ち」と後々まで言われ続け、アメリカが原子爆弾投下を正当化する理由の一つにもされてきました。外務省のその時のあまりに重大な失態をおかしてしまった時、寺崎氏は駐ワシントン大使館の職員で、中南米に転任することが決まり、真珠湾攻撃の前日は寺崎氏のための歓送会がチャイナタウンで開かれたということらしく、要するに寺崎氏の転任が宣戦布告の通知が遅れたことの要因となってしまったとも言え、寺崎氏の外務省人生でも痛恨の一事になってしまったに違いありません。

それはともかく、『昭和天皇独白録』の内容はなかなか面白いもので、多少の記憶違いも指摘されてはいますが、田中義一首相の時には、関東軍の河本大作大佐による張作霖事件について、田中首相がうやむやにしてしまおうとしたことに頭に来た昭和天皇は「辞表を出してはどうか」と言ったとこの本の中では認めています。田中義一首相が昭和天皇に「叱責された」ことは有名で、昭和天皇がなんと言ったのかは議論のあるところですが、当時まだ若かった昭和天皇が、かなりはっきりと辞めろと言ったという本人の回想があるわけですから、語気や語彙については多少の議論が残るとしても、だいたい田中義一首相辞任事件の真相ははっきり見える言っていいかも知れません。

それから、松岡洋右に対する意見が非常に厳しいものだったことも個人的には興味深いことのように思えます。ヨーロッパから帰ってきた松岡は有頂天の大得意で大のドイツびいきになっており、昭和天皇は「ヒトラーに買収でもされたのではないか」と述べています。本当にお金をもらうという形の買収があったかどうかは分かりませんが、松岡がヒトラーから大いに持ち上げられ、歓待されて、すっかり抱き込まれてしまっていたということは言えるかも知れません。松岡洋右がそういうこともあって、枢軸国を固めればアメリカと対抗できると信じるようになり、儚いまでも僅かな希望だった日米諒解案に大反対して潰してしまったというのは本当に日本が助かる最後のチャンスを不意にしてしまったとも言え、松岡という御仁の責任の深さについて、私は改めて考え込まずにはいられませんでした。

側近が昭和天皇にインタビューして聞き書きした理由としては、昭和天皇が戦争犯罪人の訴追から逃れるために、ある種の記憶の整理を目的としていたと言う人もいますが、当時は既に昭和天皇の訴追はないということがだいたいはっきりしていた時期でもありましたし、大変にリラックスしてざっくばらんに語っているということが読み取れますので、昭和天皇にとっては本当に信頼できる人だけに語った回想であり、寺崎氏も飽くまでも史料として保存するだけのつもりだったのかも知れません。

昭和天皇が何を考えていたのか、何を感じていたのかを知る貴重な情報源ですし、普通に読んでいておもしろい歴史の本とも言えます。昭和史の予備知識を充分にもってから読むと、より味わい深いというか、楽しんで読めるのではないかなあと思います。




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