マーティンスコセッシ監督『沈黙』の西洋人の視点

遠藤周作さんが原作の『沈黙』が、巨匠のマーティンスコセッシ監督によって映画化されたことで話題を集めています。私は原作30回くらい繰り返し読んだので、原作との違いがどんな風に出るのかな、それとも意外と原作に忠実な作り方をしているのかなというあたりに関心を持って鑑賞しました。

キチジローは一身に「くず」キャラを背負っているわけですが、映画では窪塚洋介がやっているので、なんかかっこいい感じが漂っており、そこまでくずっぽくありません。海に投げ込まれる切支丹のモニカは原作ではわりとおばちゃんな感じがするのですが、映画では美人なので、更に痛々しさを増しているように思えます。ガルペ司祭とロドリゴ司祭はそれぞれはまっているというか、いい感じに雰囲気が出ていると思えました。

あと、陰の主役とも言えるフェレイラの役をリーアムニーソンがやっており、現実を受け入れて適度に腹黒く、適度に計算高く、適度に諦めている感じが非常にはまっており、これも良かったのではないかと思います。

台湾でロケしたとのことですが、自然がやたらと美しく、美しいが故に切支丹迫害の場面が際立っており、原作を何度読んでもイメージできなかった部分を今回は映像で補ってもらうことができたという感じもします。

ぐっと印象的なのは、原作ではエピローグ的な扱いになっているロドリゴの後半生をわりとしっかり描いているというあたりではないかと思います。もちろん、原作でもエピローグはかなりエネルギーが注がれていますので、確かに省略するわけにはいかない場面とも言えるかも知れません。

ただ、私の手前みそな解釈ですが、原作のロドリゴ司祭は遠藤周作さんの内面にある「西洋人神父」が仮託された存在であり、ある部分に於いては教条的であり、または典型的な宣教師というイメージで創作されているとも思えるのですが、今回の映画では、それがより西洋人による西洋人の描き方に近づいた感じに仕上がったのではないかなあと思えます。というのも、原作ではロドリゴ司祭が遂に踏み絵を踏み、鶏が夜明けを告げる鳴き声を上げる場面が文句なしのクライマックスになるわけですが、映画ではその後のロドリゴの人生がわりと時間をかけて描かれており、どういう心境でその後を生きたのかが観客にもそれなりに想像できる、掴みとれるような描かれ方になっています。むしろ、踏み絵を踏んだ後のロドリゴの人生こそがこの映画で語りたかったことなのではないかとすら思えてきます。

私たち日本人の受け手にとっては、ロドリゴは究極的にはよその人でしかないのですが、スコセッシ監督の立場からすればより身内になりますので、その後の人生、大きなターニングポイントを迎えた後の人生、その心境に関心が向いたのではないかという気がします。ロドリゴ司祭のモデルは新井白石が尋問したイタリア人宣教師のシドッチとされていますが、シドッチが使用人に宗教儀式を授けていることが発覚した後、一年ぐらいで彼は死んでしまいます。まず間違いなく拷問などで衰弱死したと推理できますが、ロドリゴ司祭の場合は天寿を全うします。心の中ではイエスキリストを深く信仰しつつ、表面的にはそんなことは一切忘れたという風にして生きていく姿が映画ではわりと淡々と語られています。この辺り、やはり西洋人が作った映画ですので、自分の物語のような語りになっていたのではないかなあ、そこが原作と映画の違いなのではなかろうかという気がします。

ショッキングな場面も多いので、わりと暗い気持ちで映画館を後にしたのですが、映画を観た後に悶々と考えるのも映画鑑賞の楽しみの一部だと思えばいいのかも知れません。

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