台湾近現代史18 台湾売却論と内地主義

1895年、下関条約とその後に続く台湾民主国平定戦を経て、日本は台湾を名実ともにその施政権下におくことになります。しかし、当初想定していたようなはかばかしい成果を得ることは簡単なことではありませんでした。

樺山資紀が台湾平定戦を終えると初代台湾総督の座を退き、乃木希典が二代目の総督に任命されますが、どうもあまり政治や行政に関する理解に乏しかったらしく、何をどうしていいかよくわからないという感じだったようで、早々に退任願いを出しています。

当初、原敬などは台湾統治に対しては内地主義を主張しており、これは要するに台湾の法体系を日本国内のそれと同じものにするべきだという考えで、そこには差別なき平等な社会という理念もあったのですが、いろいろな意味でうまくいきません。簡単に言えば台湾で暮らす人々の習慣や価値観と急速に西洋化した日本の法体系が合うかどうかという問題もありましたが、仮に完全に内地と同じという方針で行くとすれば、税金や徴兵の制度も同じにするのか、では参政権はどうなのかというちょっとややこしいこともいろいろ出てきます。

世界の例をとってみるとフランスは言わば内地主義で、世界中どこであろうとフランス革命の理念の恩恵を施す一方という建前で推していたわけですが、イギリスの場合は逆で現地主義で行きます。それぞれの土地の事情に合わせ、支配地の法律上の立場も直轄領、自治領、保護国など様々な名称を使い分けています。日本は当初フランス式でやろうとしたわけです。

乃木希典が全然仕事ができなかったことで、日本人はわりとすぐに結論を出したがるところがあるように私には思えるのですが、先を思いやられる台湾経営は諦めてフランスに一億元で売却してはどうかという議論が沸き起こってきます。帝国議会でもそういう発言があったようですが、どうも当時の新聞の方が熱心だったかも知れません。日清戦争で得た巨額の賠償金で日本は産業革命を促進していくことができたわけですが、お金の魅力にまいってしまっているところがあり、もちろんお金は魅力的ですが、ちょっと執着が強くなっている様子で、金だ。金だ。みたいな世論が生まれてきます。日露戦争で賠償金をとれなかったことで日比谷焼き討ち事件にまで発展したのは、以上のような流れがあったからとも言えるかも知れません。

日本の世論が台湾売却論で湧いていると知った台湾・厦門の資産家たちは数千万円の資金を集めて自分たちで台湾を買い取ろうという運動を始めたと言います。彼らの動きはなかなか合理的だと感心しますが、おそらくはそういう動きを受けて日本側が冷却水を浴びせられたようになり、まじめに台湾経営に取り組もうという流れが出て来たかのようにも思えます。

乃木希典が退いて児玉源太郎が第三代台湾総督に選ばれますが、彼は後藤新平を民生長官に任命し、そういったごたごたしたことを何とかするように命じられます。後藤新平は現地の諸事情をかなり細かく調べた結果、土地に合った法と行政の仕組みを用いるのがよりよいとの結論に達し、そういう方向で進められていきます。台湾日日新聞に日本語だけでなく漢文のページも入っていたというあたりにも、ある種の配慮が感じられます。

こうした台湾は50年近い日本の植民地支配を受けることになりますが、その前半においては軍人が総督に就任する武断的スタイルで、後半では文民が総督に就任する文治的スタイルになり、少しずつ日本の文化や価値観などが台湾に輸入されていくことになります。

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