台湾近現代史14 牡丹社事件

1871年、宮古島の70名近い島民が首里への年貢を納めた帰りに遭難し、台湾に漂着しますが、原住民のパイワン族によってその大半が殺害されるという事件が起きます。強いて殺さなければならないというを見つけることが難しいため、原住民の独特の死生観にその理由を求めようとする論者の方もいらっしゃるようです。個人的には原住民の視点からすると、福建省移民、広東省移民、客家人などの漢民族が続々と台湾に移住している時代であったほか、オランダ東インド会社が拠点を作り原住民を奴隷労働に駆り立てるなどの出来事の記憶も残っていたため、外から来る人間はなるべく殺して台湾の土地に根付かせないというある種の方針のようなものがあったのではないかと推察します。

一般に原住民は客家人との関係は悪くなかったとも言われており、客家人を通じて外の世界の情報や通貨や銃器を手に入れていたとも言われているため、漂流者を身代金狙いで監禁する例も少なくなかったことを合わせて考えると、死生観だけで説明がつかないように思え、彼らなりの駆け引きが働き、殺す人間と身代金と交換する人間の区別もつけていたのではないか(人質が多すぎると食わせるのが大変なので、大体殺して少数を身代金と交換する)と想像することも不可能ではないように思えます。

明治新政府は清朝から冊封を受けつつ薩摩藩の支配も受けるという両属状態だった沖縄を日本のテリトリーとして確定したいという狙いがあり、宮古島の島民が台湾で大勢殺害されたこの事件を日本人が殺された事件として外交問題化させようとします。外務卿の副島種臣が清に渡り、交渉しますが、清サイドとしては「台湾の原住民は自分たちの管轄外」という態度に出ます。副島が「ならば日本人が台湾に渡って征伐しても文句はないですね」と畳みかけると清の側からは「好きにしてください」という返答だったため、外交上の問題を処理した上での台湾出兵へとつながっていきます。副島の畳みかけには「沖縄は日本のテリトリー」という前提をくっつけているものであり、勝手にくっつけて何をするのかと反論することもできますが、清の官僚としては台湾や沖縄の事情はよく分からないので関わり合いになりたくなかったというのが本音だったのかも知れません。

このような経過を経て台湾出兵が決まりますが、征韓論にも反対していた木戸孝允が台湾出兵に反対して辞任、新政府は空中分解の危機を迎え、大久保利通は一旦台湾出兵を見送らせることにします。しかしながら、現場の兵士たちの士気は高く、やる気まんまんで、台湾征討軍は出発し、台湾に上陸します。ローバー号事件で対応したルジャンドルが台湾出兵に同行する予定で、ルジャンドル本人も原住民との交渉には自負するものがあったのかも知れないのですが、台湾出兵延期の報に触れて自身の出発を見合わせ、改めて軍が出発した後は迎えに来た大久保と一緒に東京へ向かっています。

台湾出兵では日本側の戦死者は必ずしも多くはありませんでしたが、マラリアなどの熱帯性の感染症に罹患する兵士が続々と倒れるというありさまになります。これは日清戦争後の台湾平定戦でも同じことが起きており、兵士の病死の原因が栄養失調かそれとも感染症によるものかで議論されることにもなります。結論としては感染症によるもので、それを教訓に日露戦争では感染症予防のために兵士たちに「大地に積もった雪を食べるな」との訓練がなされてもいますが、酷寒の大地にマラリアや赤痢の細菌がうようよいるかといえばかなり怪しく、初期日本軍の兵士の健康に対する認識の脆弱さもうかがわれます。

日本の台湾出兵は清朝サイドに「まさか本気でやるとは思わなかった」という狼狽の態度を採らせ、駐清イギリス公使パークスも清朝の味方につき、この件について大久保利通が北京に渡って李鴻章と交渉することになります。李鴻章側から見舞金を支払うと申し出があり、日本軍の撤退の時期なども決められますが、李鴻章としては勢いで台湾を日本にとられてしまうよりは、見舞金を払うことで結果的に台湾は清朝の領土であるということをはっきりさせられることの方を優先したのものと思えます。

一連の事件は以上のような経過を辿りましたが、日本では宮古島島民遭難事件と台湾出兵を別の事件として語られることが多い一方、中華圏では一つにまとめて牡丹社事件(牡丹社とは、パイワン族の集落という意味)で語られることが多く、関連性とはつながっているということも考慮して、今回は一つにまとめ、牡丹社事件として述べてみました。

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