台湾近現代史13 ローバー号事件

1867年3月2日、アメリカ船籍のローバー号が台湾南部の海域で座礁します。アヘン戦争とその後に起きたアロー号戦争の影響で欧米の船が周辺の海域をかなり思う通りに動けるようになり始めており、1858年に結ばれた天津条約の結果、中国大陸だけでなく台湾の台南と淡水でも開港することが決まり、台湾周辺を欧米の船が頻繁に公開する時代が始まっていました。

ローバー号の乗員は2つのボートに分かれて上陸しますが、原住民の人々に襲撃され、ほとんどがその場で殺害されるか誘拐されるかという事態になり、唯一無事だった中国人船員が漢人系の家屋に助けを求めます。事情を知った漢人と原住民の人々が現場に急行しますが、数名の死体が発見できたものの、それ以外の人たちがどこへ行ったのかさっぱり分かりません。

高雄(当時は打狗)のイギリス領事官に報せが届き、イギリスの蒸気船軍艦が現場へ向かいますが、現地の原住民の攻撃に遭い、上陸を断念し引き上げることになります。

その後、台湾の行政当局に報せが届き、善後処置が求められますが、当局からは「原住民は我々の管轄外なので何もできない」と対応されます。イギリス側は自国民ではないこともあってか、そこで引いています。

台湾にはまだアメリカの外交窓口がありませんでしたが、対岸の厦門のアメリカ領事に事件の報せが届きます。アメリカ領事ルジャンドルは福建省の当局に善処を求めますが、消極的で、ルジャンドルが台湾へ渡るということだけは認めます。ルジャンドルが台湾に渡ってみると、台湾の行政官とイギリス領事が対応しますが「問題は解決済み」という対応だったようです。

そこでようやくアメリカ海軍の登場となり、およそ180名が上陸しますが、上級将校が狙い撃ちされて死亡したことに加え、過酷な天候もあり、早々に断念して引き上げることになります。

その後、ルジャンドルは清朝政府に働きかけ、数百名単位の遠征軍を編成させ、再び台湾に向かいます。台湾では別の漂流民の残存者と出会い、その人物の仲間が原住民によって監禁されていることが分かり、その解放のための交渉が行われ、身代金と引き換えに人質が解放されます。

ただし、ローバー号の乗員は全て亡くなっていたものと見え、遺体だけが返還されますが、これによってアメリカと原住民の当該部族との間に講和が成立するという運びになります。

ルジャンドルはその後日本に立ち寄り、請われて政府顧問となり、後に起きる牡丹社事件の対応に意見を述べる立場になります。牡丹社事件は宮古島住民が台湾に漂着して原住民に殺され、日本側が台湾に軍を送るという事件ですが、ルジャンドルがローバー号事件によって得た知見が活用されたことを考えると、ローバー号事件と牡丹社事件は深く結びついたものであると考えることもできるように思えます。

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