台湾が清朝の版図に組み入れられた後、清朝は台湾に台湾府知府を設けて行政官を送り込むようになります。王珍という人物が台湾府知府を任じられていた時代、18世紀の初頭ごろですが、大地震と津波が起き、台湾住民の信仰心の不足が原因であるとして、多くの住民を拘束します。儒教では人の心が荒むと天災が起きることになっているので、本来なら為政者(今回の場合は王珍)の落ち度なのですが、王珍はそれを自分の責任ではなく、民の責任であると転嫁しようとしてきたわけです。17世紀終わりごろから大陸から移住してきた漢民族を指します。
朱一貫という人物が王珍は暴利を貪り、津波を他人のせいにしているなどと王珍を非難し、決起します。また、杜君英という人物も決起し、それぞれが手勢を率いて台湾府知府の軍隊と対決します。杜君英という人の動きは素早く、台湾府知府を陥落させ、王珍は澎湖へ脱走。ほどなく王珍は憤死ししたと考えられています。
これにより、朱一貫と杜君英の連合政権が生まれるに至たものの、今度は朱と杜が対立します。朱が福建系移民の利益を代表し、杜が広東系移民の利益を代表するような形になっていたようです。この戦いでは福建系の朱が勝利し、杜は台湾を脱出して清朝に降伏します。杜君英はその後北京に送られて斬首刑に処されるという運命を辿ります。現代の台湾人が主として福建系で構成されている主要因はこの抗争の結果かも知れません。
杜君英を排除することにした朱一貫は未だ服していない客家系住民と原住民の人々の平定に乗り出します、ただしこれはうまくいかず、朱一貫は敗走させられています。
その後、清朝が放った討伐軍が台湾に上陸します。清朝としては台湾は「化外の地」としておきながらも明朝の遺臣を自称する者が跋扈していることは統治・宣伝上好ましくないので、統治理論上どうでも討伐しないわけにはいかなかったものと言えます。
当時、朱一貫は杜君英の残党狩りにも忙しく、清軍の台南上陸も阻止できず大敗して捕らえられ、北京に送られて凌遅刑に処せられます。親族もただでは済まなかったようです。
清朝はこの事件を経て台湾統治をより固めることができたとも言えますが、その後、原住民の反乱である大甲西社抗清事件を招くことになります。
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